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2018.06.12

社長ブログ(ほぼ毎週金曜日更新)

守谷の夜(私見も入れて)

思わずハッとしてしまう
スマナサーラ長老の言葉がある。

それはスマナサーラ長老がよく言われる、
「2週間もかからずに、預流果ぐらいには覚るもんですよ」
という言葉だ。

想田和弘監督との対談書『観察』では、
スマサーラ長老は次のようにも言われている。

「素直な人だったらすぐに成長します。
お釈迦様は、『朝、教えたら午後覚りますよ』
とおっしゃっていました。
正確には『午後になる前に』ですね」

 

観察 「生きる」という謎を解く鍵

『観察――「生きる」という謎を解く鍵』アルボムッレ・スマナサーラ/想田和弘[著]

 

こんなにすぐに覚れるという話を聞くと、
「いったい自分は何なんだ?」と思ってしまう。

たぶん自分はそうじゃないから、
すごく焦るのだと思う。

 

“さかさま”に気づく瞬間

僕は先週、茨城県守谷市で実施された
スマナサーラ長老ご指導の
ヴィパッサナー実践合宿に参加してきた。

茨城県守谷市にある合宿施設

 

スマナサーラ長老はよく
“あべこべ”という言葉をつかって説明をする。
サンガからも『あべこべ感覚』という本を出版した。

 

サンガ新書『あべこべ感覚』アルボムッレ・スマナサーラ[著]

 

しかし、今回の守谷の法話では、
スマナサーラ長老は“さかさま”という言葉を使っていた。

僕も修行が調子よく進んでいると感じるときは、
“あべこべ”とか“さかさま”という感覚が
すこし腑に落ちるような感覚になるようなときがある。

たとえば、次のようなことがある。

  • 私は見る。
    私は聴く。
    私は嗅ぐ。
    私は味わう。

これが、さかさまに感じるような瞬間があるのだ。

  • 見えるから、私がいる(と妄想する)。
    聴こえるから、私がいる(と妄想する)。
    嗅ぐから、私がいる(と妄想する)。
    味わうから、私がいる(と妄想する)。

ときどき、眠っていて目が醒めたときに
「いったい、ここはどこなんだ?」と思うことがある。
みんなも、「あれ、いま自分はどこで寝てるんだ?」
と思ったことがあるんじゃないかな。

眠った状態から、起きた状態へ移行する、そのほんの一瞬は、
「私が」という妄想ができる前の瞬間だと思う。

「私」という妄想なしは、自分は生きていけないと思っているのだが、
実際はこんなものがなくても生きていけるのだということを、
お釈迦様は教えてくれているのだと思う。

だから、感覚を感じるヴィパッサナー実践を集中的にやっていると、
この妄想からの転換が起こるのだろう。

 

公案についての発見

スマナサーラ長老は、概念が発生するときについてのお話をする中で、
「公案だってそうですよ、結局は公案自体がまちがっているんです」
と言われた。
僕も先日、人間禅で講演をしてきたばかりということもあり、
それを聞いてピンときた。

僕に出された公案は、

「父母未生以前の本来の面目、如何」

というものだったが、
この考案自体が「我の面目」を問うものであり、
そもそも「我を呼び起こす公案」である。

なるほど、だから、ここにトリックがあるのだ。
無我を探究するために、我を持ち上げ、
そこで矛盾にぶつかり、気づかされる。

言ってみれば公案は、
この矛盾を突破させるツールなのかもしれない。

 

殻を破る瞬間

僕たちはみんな、
その一瞬一瞬は、完全無欠であるはずだ。
しかし、思考や妄想で、
その本質を常に見失っている。

そのことが本当に腑に落ちたのなら、
預流果に覚るのは、それほど時間がかからないのかもしれない。
でも、頭で分かっていても、
これはどうにもならないことなんだ。
それは、得るものではなく、捨て去るものなのだと思う。
スマナサーラ長老も、今回の合宿で、
「殻を破れ」「殻を破れ」とさかんに言われていた。

しかし、それはどこかにあるものではなく、
いまここにあるものなのだ。
この自分の凝り固まった殻を破るのは、
並大抵のことではないし、なかなかできない。
そこで人は苦しみ、もだえ、
どこかに、誰かに、助けを求める。

先日、秋葉原の駅で、
酔っ払いがホームをフラフラと歩いていて、
危うく線路に落ちそうになった。

電車にぶつかってしまいそうなそのとき、
僕はとっさに、その男の身体を強く引っ張って助けた。

命を救うことができて、心からホッとしたのだが、
その男は、酔っ払っていたので、
お礼も言わずに、ただ去って行ってしまった。

僕は、思わずムッとしてしまった……。

せっかく助けたのだから、
お礼のひとことでも、言ってほしかったのだ。

でも、ムッとする少し前は、
たぶん満たされていたのだと思う。

なぜならそのときこそが、
自分の殻をちょっとだけ破れた瞬間だったからなのだと思う。

夜に合宿施設のホールに奉られてた仏像を撮ってみた。