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2017.07.21

社長ブログ

鎌倉01

今回は、なぜ「鎌倉01」なのか?

それは「鎌倉03」くらいまで読んでもらえればわかると思う。

それに僕は、サザンの『KAMAKURA』が大好きなので。あまり関係ないけど。

とりあえず01では、臨済宗での修行について語ることにしたい。

 

僕の修行時代

サンガを本格的に始める以前、20年近く前に僕の修行時代があった。

別に今は修行が終わったという意味ではないんだけど、当時はほとんど修行以外に何もしなかった。

ある臨済宗の道場に入り、「公案」と闘っていた。

その公案とは、「父母未生(ぶもみしょう)以前の本来の面目如何?」。

つまり、「父母が生まれる前の自分は何だったのか?」という則(公案の中の1問の意)。

まさに禅問答の真骨頂だ。

坐禅しながら、これにただひたすら集中する。摂心(体育会系リトリート)で、これを徹底的にやらされる。

ずいぶん後になって知ったネルケさんもけっこう坐るが、この時の僕も決して負けてはいなかった。

一日10時間以上、そして夜中も自主的に坐る。早朝4時に起き、深夜の1時2時になってようやく寝る。

 

つらい独参の日々

巨大な存在の「師家」がいる。

師家に「独参」するのが、この摂心のメインとなる。つまり先生に答えを言う。

独参するには、師家が待つお茶室みたいな場所に行く。立ち膝で入室しないとものすごく怒られる。

父も母も生まれる前なんだから、僕がいるわけがない。存在しているはずがない、だから「無」だ。

・・なんて答えると、師家の手中の鈴が即座に「チャリンチャリン」と鳴る。いかにも軽蔑的な響きで。

 

はじめのうちはまだいい。何かしら言うことがあるからだ。

「空」「師家を指さしてお前だと言う」「ワッハハハ(ただ笑う)」「我父母を持たず」「―――――(何も言わない)」「自分を指さし黙っている」

全てチャリンチャリンである。

そのうち独参するのがつらくなってくる。だんだんとものすごくつらくなってくる。

それは永遠に回り続けるジェットコースターのようだ。

 

道場をやめる

臨済では長方形の形になって、相対して半眼で坐る。支部長が上座で座を管理している。

2回も続けて行かないと、支部長から「島影行け!」と大声で怒鳴られる。

答えることがないからと、行かなければまた怒られる。まさに万事休すだ。

そうなるともう逃げるしかない。つまり、不真面目に作って答えるしかない。

チャリンチャリンは分かっている。それでも「見性」(悟り?)を目指して、何度も摂心に参加した。

 

そのうちに、僕は老師の侍者(老師の摂心中の面倒をすべて看る)になった。

あるとき老師が言っていた。「あの二人はもうひとつだけど通してやった」。

そんなのありかよと僕は思った。

だんだん年齢的に自分の後輩とか、新人とかが見性するようになる。

いつも一緒にやっているから、すごく自然にライバル心が育ってしまう。

ある打ち上げのとき、新人が先輩と話しているのを偶然聞いてしまった。

「本見て通ったんですが、これでいいんですかね」「そのうち分かるから、いいんだ」

話を聞いて愕然とした僕は、道場をやめる決心をした。