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瞑想会

インド・ブッタへの旅

◆ 江原通子のインド紀行 ◆
インド仏蹟巡拝 −三度目の正直−

<1> プラクシヤ樹今いずこ(降誕)

一筋の道がある。青い麦畑を縫ってゆるやかに丘をのぼり、頂の大樹の根元をすぎて静かに丘を下り、はてしない緑の中に消えて行く。麓で岐れたもう一筋の道はどこへ行くのか。その先に人は棲むのか。疎林が続くだけなのか。たゞ無言で岐れ、無限に延びている。
「ああ、ブッタは、あの丘の樹のもとにいこわれたか。奥の村にも法を説くために、麓で岐れるあの道に歩み入れられたかー」
眺めても、眺めても倦くことがないーそれがインド仏蹟巡礼の旅である。

イラスト1

私は今までに二度仏跡を廻った。それが八十四才となった今年、なんとも絶妙な幸運に恵まれて、スリランカ上座部のA・スマナサーラ長老を先達に仰ぐ、日本テーラワーダ仏教協会の巡礼グループに、孫娘とともに加えていただくことが出来た。これはその私の「三度目の正直のインド」の小さなメモリーである。

昭和9年、JOAK(*1) の「宗教の時間」に二週間の連続講座で、毎朝『ダンマパダ』の十五の偈を講じ、一擧に全国のインテリに、はじめて『法句経(ダンマパダ)』の名を知らしめたと言われる友松円諦師は、よく
「みなさーん、お釈迦さまは東経83度8分、北緯27度37分の地点に誕生されました」
と、獅子吼された。そこには、インドも、ネパールもなかった。それは後人が定めた境界である。
2004年2月7日、私達はまさにその東経83度8分、北緯27度37分の地点にたっていた。
紺碧の空に陽は輝き、大石柱アショーカピラは爽やかな風の中にあった。それは、ヒマラヤ南麓のターライ盆地の南部に当り、十九世紀末、この石柱を見つけるために、人々は三メートルも地面を掘り下げなければならなかったのだと云う。
7世紀の前半ここに来た玄奘三蔵(*2) は、馬の柱頭を持つこのピラが、落雷のため、上半分が折れたと書き残している。
今、石柱はしっかりと地上に固定されてるが、柱頭に馬の姿はなく、やや見上げるほどの位置に4行半刻まれたカローシュティー文字(*3) を鮮やかに目にすることが出来る。この古代文字は右から左に読むのだというが、長老が傍の解説板によって説明してくださる。

神々に愛せられ、温容ある(アショーカ)は、即位潅頂ののち二十年を経て、自らここに来て石柱を建てさせた。世尊はここに生れ給うたからである。ルンミニ村は税を免ぜられ、(生産の)1/8のみ拂う。

と。
出産を控えて実家のコーリヤ族(*4) の居城に帰ろうとしていたマーヤー夫人が、途中、花咲く園に憩つて快く沐浴し、岸辺に香ぐわしい白い花をつけたプラクシャ樹(無憂樹(*5) )の枝に、東に向かって右手をかけた刹那、九の称号をもって今も限りなく讃えられる人の「偉大なる誕生」があったと、仏伝はつたえる。王子は歩歩生じる蓮華を踏み、北をむいて七歩ゆき、7歩もどり、

「 これぞわが最後の生であり、再び生れることはない。」
と、宣言したと言われる。

長老が磁石で、北と東の方位を明らかにして下さる。古来インド大陸の人々にとって、東は吉祥、北は神聖な方角なのだという。
二十数年前。二度ここを訪れた時は、簡素なマヤ堂が傍のタンクに白い影を落し、あたりは一面の草原に、処々大樹がしづもり、堂の近くにも一本の古い菩提樹が茂って居た。入口を入ると、仏誕の様をうつした愛らしいレリーフが立てかけてあり、土地の人々の信仰の習わしで、赤い塗料が一刷毛されて居たのを覚えている。
今、マヤ堂は全て新しく建て替えられ、古い地底をのぞき見られる工夫もされて、頭上には、昔のレリーフがはめこまれている。拝観には都合よいが、何か西安の兵馬俑(*6) と似た発想で、少し淋しく感ぜられた。そしてもっと淋しいことは、広くなったマヤ堂のために、あの、古い大きな菩提樹が伐られて、姿を失っていたことである。
一人一人が母の胎内に包みこめれるような物やわらかい草原のマヤ堂は消え、今は公園のように整備された敷地の隅々にまで、チベットの人々が掛けつらねる旗の波で、毎日が運動会のようにも思われる。まあ、心情はよく解るので、我慢するしかない。
そう云えば、玄奘より二百年程前に法顕(*7) ここに来た時、マヤ堂は大きな菩提樹が茂っていたが、玄奘が訪れた時、その樹は枯れていたと言う。仕方がない。ブッダは
「 一切の現象はうつり変る 」
と、常に説かれたではないか。

この地で三十五年、マヤ堂に向合うネパール寺を守って来た老僧がいる。流暢な日本語で、「よく来た」と招き入れ、祝福の赤い紐を一人一人手首に結んで下さった。
この国の毛沢東主義者(マオイスト(*8) )が明日予定しているストライキを避けて、私達は今日中にこの国を出ることになり、折角マーヤー夫人に抱かれる思いのルンビニーの一夜のホテルをキャンセルして、急遽ピプラワーの旧マハラジャの別荘に泊った。
昔、ラクノーでも同じようにマハラジャの黄色い館に泊ったことがあるが、古い邸は過分にゴージャスでも、何となく恐ろしい。そしてそれが又面白くもあるのがインドの旅である。

*1 JOAK ・・・NHK(ラジオ第1放送)。

*2 玄奘三蔵 ・・・13才のときに僧侶となり玄奘と名乗る。629年の秋、
             26才で西安市(昔の長安)からインドへ無許可で出国
            する。約16年間ついやしてインド各地をまわり、645年に
            馬20数頭分の経典や仏具などを持ち帰る。

            ※三蔵法師は経、律、論に精通している僧侶に付ける
            敬称。
            ときには三蔵と略される場合もある。そして三蔵を玄奘
            の固有名詞的に使うこともある。

*3 カローシュティー文字 ・・・紀元前三世紀のマウリヤ朝マガダ国の時
                     代にインドで使われていた。

*4 コーリヤ族 ・・・マーヤー(摩耶)夫人は同じ釈迦族の一族でコーリヤ
             族とよばれるデーヴァダハ城の姫で、王の従妹にあた
             っていた。

*5 無憂樹 ・・・「憂いのない木」とはこれまた,良い名前ですね。インドで
           は恋する乙女の願いをかなえ,また,誕生・結婚にかか
           わる幸福の木として愛好されるそうです。というのも,お
           釈迦様がこの木下で生まれたからとか。

*6 兵馬俑 ・・・兵馬俑は秦の始皇帝の陵墓に副葬された埴輪(ハニワ)
           の軍隊で、近頃発見され現在も発掘が続けられてい
           る。

*7 法顕 ・・・337ごろ〜422 東晋の仏僧。平陽郡武陽(山西省)の人。
         中国では経の訳出はなされている割には,出家生活の規範
         になる戒律が伝わっていないことを憂えて,60歳余の老齢
         にもかかわらず数人の僧とともに長安を出発してインドにむ
         かった。6年の歳月を費し,敦煌・ウテンなどをへてヒマラヤ
         山を越え,中インドに達した。中インドからセイロンの仏跡を
         めぐり,『摩訶僧祇律』『雑阿毘曇心論』『五分律』『長阿含』
         などの諸本を得て目的を達成した。

*8 マオイスト ・・・毛沢東主義を標榜する反政府組織。

<2> 一つになったカピラ城

仏蹟巡拝とは
ルンビニ-(降誕)
ブッダガヤー(成道)
バーラーナシー(初転法輪)
クシナガラ(槃涅槃(はつねはん))

の四大聖地。更には
ラジギール(王舎城)
サヘト・マヘト(祇園精舎と舎衛城)
サンカッサ(三道の宝階の地)
バイシャリー(宿縁深き町)

の四ヶ所を加えた八大聖地をめぐるのであって、いずれの場合も今回紹介するカピラ城は含まれない。理由は只一つ、そこは釈尊がブッダとなられる以前を過された土地だからで、そこにも比類ない仏教の論理性を垣間見る思いがする。
とは云え、そこは釈尊が一国の皇太子として、はたまた一人の人間として、悦びも、憂悶の限りをもつくされた故地と思へば、誰しも一度は訪れたいと願うのも亦人情の自然であり、巡拝者のほとんどは、降誕の地ルンビニ-からほど近いカピラ城跡を訪ねるのである。

イラスト2

 ところが長い間、この地上にカピラ城は二つあった。一つはネパール國ルンビニ-県カピラバストウ郡タウリハワー町の郊外、ティラウラコットと呼ばれる壮大な遺跡で、日本の大正大学調査団の十余年の協力もあって、ネパール政府はここがカピラ城の跡であると熱心に主張して譲らなかった。近くの町や村は、原始経典に見るカピラ城周辺の地名を今もとどめ、法顕、玄奘の記述にも一致するところが多いと報告された。
 一方、国境をひとまたぎしたインド共和国ピプラワーの草原にも煉瓦積みの広大な遺跡があり、インド政府はこれこそカピラ城であると主張して譲らなかった。
 雨期もすぎた空気明澄の11月、ここに佇って北を望めば、千古の霊をいただくヒマーラヤ連峰の中でひときわ輝くダウラギリは指呼の間にあり、ああ、釈尊はこの風光の中で成人されたのだと、深い感慨に襲われるという。

 研究者によれば、シャカ族の国はカピラ城に棲む王を中心とした貴族共和制で、おおよそ日本の千葉県ぐらいの広さであり、今のフランス程の広さだった老大国コーサラの東北隅に藩属していたのだと言う。

 1980年、はじめてこのピプラワーを訪れた時、住居と貯蔵庫跡らしい広い煉瓦積みの一隅の井戸の底から、装身具のガラス玉が見つかったと土地の人は言っており、今度訪ねた時も、遺跡は非常によく保存されていた。
 又、同じ時土地の人が指さして、1898年フランスの考古学者ペッペが
 「シャカ族の遺骨を納める」
と云う銘文を持つ蝋石壷を発見したのはあの辺だと云った土盛りは、その後調査されて、更に深い層から第二の舎利壷も出土し、今はガンワリヤーと呼ばれる宮殿跡の煉瓦積みの土盛りにのぼることも出来、少し離れて城門の遺構も見ることが出来る。
 このようにして二つのカピラ城をめぐり、インド・ネパール両国の論争は世紀をこえて展開したが、実は二つの地点は、共に降誕の地ルンビニーからは直線距離でほぼ8キロ。かつて私は一日のうちに両遺跡を見て、これは案外、片方が赤坂見附あたりの石垣を掘り当て、一方が大手御門あたりの石組みを発見して、互いにこれこそ江戸城だと云い張って居るようなものではなかろうか。インド・ネパール両国の力みようは何とかならないものか、ここで争ってはブッダに申し訳ないではないかと云う思いを、多年胸に抱きつづけて来たが、聞けば最近、両国は暫く話し合いのテーブルにつき、ネパール側の遺構は若き日の皇太子釈尊の夏の宮殿、インド側の遺構は政勢や式祭も行われた本宮殿ということで、目出度く決着がついたということだった。これは今回三度目のインドで聞いた一番嬉しいニュースであり、
 「世界のみなさーん、ご参考になさって下さーい」
と叫びたい思いである。

 釈迦族はこの地でコーサラ王の虐殺に逢い亡んだ。その時彼らは
* いのちと引換えでもウソはつかない
* いのちと引換えでも他人(ひと)は殺さない

の二ヶ条を守るために死をえらんだと云う。そして今、その二ヶ条の教えだけが、この地に残るすべてである。

<3> 悟りは近づく −前正覚山−

イラスト3

 ビハール州南部ガヤーの町は、三千年近くの昔からひらけて居た宗教都市なのだという。
 そこには多くの宗教家や、それぞれその許に集まる修行者達がたむろして、自然と交易なども行われて居たにちがいない。今でも、ガヤーはガヤガヤと殷賑(いんしん)を極める、ヒンズー教の巡礼聖地である。

 故郷カピラ城を抜け出て、一晩中愛馬を走らせた釈尊は、東方アヌービヤの辺りから南下し、ガンジスを越え、マガダの都王舎城(ラージャガハ・現ラジギール)を経て更に南方を目指し、遂にこのガヤーに至り、その南郊の水清く、緑ひろらかなウルベーラ村の地を踏まれた。
 これは譬えば、まことに卑近な例ではあるけれど、昔の奥の細道を、一人の青年が、二本松辺りの故郷を出て、はじめて関東の地を踏み、江戸の城下を通り抜け、東海道をひたすら西下、安倍川、大井川といくたびか大川を渡り、名古屋のお城は目もくれず通り過ぎ、漸く草津の湖畔あたりの草の上に腰を下ろしたような長旅であった。しかも、出家の身には旅人宿もない。草に臥し、茨に臥し、食施をうけるまでは喰べ物もない。昨日まではカーシー産の最上の衣服をまとって玉樓にあった身であっただけに、どれ程の辛酸であったか、思うだけで胸がせまる。しかも釈尊は、これからこそが本格的な修行だとの決意のもとに、対岸に渡られたのだった。
 今、ガヤーの町を抜けてブッダガヤを目指せば、左手にはネーランジャナー河の流れがあり、北流する河水を隔てて、はるか対岸の彼方に二瘤ラクダの背のような山容を望むことができる。前正覚山である。釈尊はここの苦行林に入られて、六年、七年、或いは十二年とも言われる苦行を修された。
 後年、釈尊はベーサリーの重閣講堂で、外道のサッチャカにこのように語られたと云う。

昔のいかなるサマナ・バラモンのうち、いかに激しい苦痛を受けた者も、わたしほど最極の苦行を試みた者はなく、
未来のいかなるサマナ・バラモンもわたしほどの苦行をする者はないであろうし、
現在のいかなるサマナ・バラモンもわたしほどの激しい苦行をしている者はないのである。

 制心、制息、制食、余りに激しい苦行に悶絶し、「ゴータマは死んだ」という報せが幾度かカピラ城にも届いた。しかもそれは、昔も今もインド一般に行われている解脱への代償行為ではなく、清い誓願のもとに修せられる一つの禅定であったと信じたい。

 人気ない森の奥、身の毛のよだつ場所を選んで禅定に入る釈尊に、森の獣は近づき、孔雀は枝を落とし、風は木の葉を吹き上げて、燃える如き恐怖のおののき−その時、悪魔ナムケは囁いた。

あなたの死は近づいた。
君よ、生きたほうがいい

それをうけて釈尊は
「私の心はもろもろの欲望から離れて居る。
見よ、この心身の清らかさを」

と。ナムチが脇にかかえるヴィンナ(立琴)がぱたりと落ちた。
 又、或る時、釈尊は墓場で骸骨を寝床とし、その時牧童たちがやって来て、唾し、放尿し、ゴミを撒きちらし、両耳に木片をさしこんだ。しかし釈尊には彼等への悪心が起こらなかった。このように心の平静に住する行を、ある経典は「七年慈心を修した」と表現して居る。

 かつて悟りは近づく−決然と山を下りたとされる釈尊に、山中の岩屋に棲む竜王はこれを惜しみ、どうかここで悟りを開いていただきたいと願った真情だし難く、釈尊は自らの影を留められたと伝える「留影窟」は、山麓から山道をしばし登った所にあり、法顕も玄奘も訪れて居るが、今はジャイナ教の祠(ほこら)となって居る。息を弾ませて上り切ると、おとなしい犬が優しく出迎えてくれた。

イラスト4

 1980年に来た時には、正覚山にはポニーの背をかりて往復一日行程ですと云われ、七年経って来た時は、行けるには行けますがジープでないとと云われた前正覚山であったが、今ではガヤーから向う岸まで立派な橋が出来、人や車の往来も盛んで、村民にはまことに申訳ないが、私達の小型乗合(7〜8人位)自動車がけたたましいクラクションを鳴らし土埃を巻き上げて走り抜けても、いやな顔もせず見送ってくれる。子供達は小奇麗な服をきせて貰い、通学途上の制服姿はとりわけ好ましく、気軽に手を振ってくれたりした。

<4> 悟りは近づくA −スジャーターの村−

 前正覚山を出て、釈尊が下られた山路は、そのままネーランジャナー河(現バルグ河)の東岸沿いの樹林につづいて居た。そこはその頃セーナーニ村(将軍村)と呼ばれ、村長(むらおさ)の娘スジャーターは、ある朝
「尊い修行者が林に居られるからご供養しなさい」
と天神の告げるのを感得し、心をこめて乳粥を炊き、林中趺坐の釈尊に献じた。

イラスト5

 悦びの心に満たされた食施をうけた釈尊は、立って、ネーランジャナー河に沐浴し、西方の岸に上ろうとして思わずよろめかれたが、岸の一樹女神が一枝を垂れてくれたのを頼りに、辛うじて向こう岸に上られ、尚も西に向って歩を進められたのだった。
 歩々精気をとりもどされ、元のような若い輝きが現れた釈尊が、こんもりとした林に歩み入ると、そこは地が平らかで四方の眺めが清く、柔らかな草が生え揃い、大きなアシュヴァタ樹が枝をひろげ、美しい花々が咲いて居た。  ふと、道近い右手で若者が草を刈って居る姿に気づかれた釈尊が、歩よって草の名を聞かれると、若者は「スヴァッティカ(吉祥草)」と答えた。普通には「クシャ草」と呼ばれるこの草は青々と柔らかでよい香りがし、釈尊がすこしそれを貰いうけたいがと頼まれると、彼は喜んで沢山わけてくれるのだった。
 ふと前方に目をやると、四方に枝をひろげて、いかにも深々としづもって居る一本のアシュヴァタ樹(ピッパラ樹・菩提樹)の大木が目にとまり、その地をまことに好ましく感じた釈尊は、ここをこそ正覚の場にしたいと、先づ樹神に敬意を表して、そのまわりを三度右廻りにめぐり(貴人に対するインドの最高礼)、かの吉祥草を柔らかく敷き東に向って趺坐し、次第次第に、深い禅定に入って行かれた。

 そこに、薄衣かろく、瓔珞の花美しいマーラ(魔王)の娘三人が現れ、
春は来ぬ
日はあたたかに草萌えぬ
君いかなれば若き日の
たのしみ捨てて遥かなる
さとりの道をいそがるる
見ずやわれらがあでやかさ
浮世を捨てし仙人も
愛染のこころ起こせしを

と、歌いつつ衣を翻して舞うのだったが、後年釈尊はこう述懐しておられる。
「その時、私はこの女たちに、足の指でさえ触れようという心を起こすことがなかった」
と。

 破れた魔王は、今度はおどろおどろしく武器をととのえた魔の軍勢をさし向け、天鳴地動、狂風、豪雨、雷鳴の中に攻撃をくり返し、最後には魔王みずからがさまざまな恐ろしい武器を投げつけたが、それらは皆釈尊の身近に来ると美しい華鬘(けまん)や粉香と変わり、烈火の雨も花の天蓋となり、暗黒も日の輝きと変わるのだった――かくして夜は更け、まさに悟りは近づく。

 今、ブッダガヤーから立派な橋を自動車で渡れば易々とスジャーター村の入口に着くことが出来る。夕刻が近づき、私達は揃って橋の袂で降り、右手の疎林に踏み入ることになった。そこはもうスジャーター村で、スジャーターの邸跡は目の前一群の木立の向うにあるのだと云う。しかし私はバスに残ることにした。夕暮れ、足許が悪く、周囲に心遣いをかけるのもはばかられたし、自分でも少し疲れて居た。バスの自席に坐って居ると、添乗のインドの若者が
「いくつか」と聞く。
「八十四才」
と答えると、
「おおーッ」
と叫んで拝んでくれた。インドでは年寄りをとても大切にしてくれる。彼は一目散に姿を消したが、やがて厚いガラスのコップに溢れそうな熱い熱いチャイを両手に捧げて得意そうに帰って来て一つを私に飲ませてくれ、一つを嬉しそうに自分も飲んだ。
 日は次第に暮れ、対岸の西空が刻々茜色に染まって行く、真赤な、大きな夕陽が、ぐッ、ぐッと大塔の肩に迫って来て、見る見るうちにスーッと沈み、胸まで沈み、あっと云う間もなく額まで沈み、そして、ポトンと消えた。残照と静寂。
 我が生涯のうちに再び拝することはあるまい大塔の英姿だけが、黒々といつまでも暮れ残って居た。

<5> 大塔は聳える

イラスト6

 釈尊が、ネーランジャラー河畔で偉大なる悟りを成就された金剛宝座は、今も菩提樹下に荘嚴され、その背後には黒々とした尊容をほこる大塔がそびえて居る。四半世紀前、はじめてここに来た時、夜の白らむ前に庭に出た。前方にはタイ寺の繊細な屋根飾りのシルエットが曙の光の中に浮かび、細い細い二日月、左手には今し輝く明けの明星。

 「ああ、来たのだ。ブッダの御許へ! 成道の地へ!」

足許はまだ暗く、タイ寺の脇の草地を大塔めざして足早に歩む、低い読経のハーモニーが聞えはじめ、ちら、ちら、小さな光の群れも見えて来た。チベット僧たちの、早曉のいのりだった。
七年経って来た時には、タイ寺の後に建つ日本寺に泊めていただいた。大塔の周辺には次第に世界の各仏教国のお寺が建ち並びはじめ、特に折からダライラマが滞在されて居たチベット寺は、まるでお祭りのように湧いて居て、チベットの人たちの熱い悦びが大空にまで舞い上がって居るかのようだった。それに比べると宿舎の日本寺は静かだったが、これには又これで深い由緒がある。
 かつて第二次大戦後のしばらくは、日米蜜月時代で、フルブライトで留学した人も多かったし、又、これはと思う日本の知識人を招待して、アメリカを案内したりもした。昭和29年というと、日本が高度成長期に入る直前で、当時の日本仏教界の新鋭と目された鎌倉円覚寺管長朝比奈宗源老師にも、国務省から招待が来た。老師は
「日本は貧しい。私も貧しい。だが私は一度インドに行って釈尊の御跡を実地に拝みたい。アメリカの帰りに更に東行して、インドを経、西から日本に帰っていいのなら」
という条件を出し、国務省はこれを呑んだ。
 目出度くブッダガヤの地を踏んだ老師は、そこでセイロン(現スリランカ)の僧と、チベットの僧からお茶の接待をうける。その時、二人の異国の僧が口をそろえて言った。
「大塔は先年政府の周施で仏教徒とヒンズーとの共同管理となったが、これでは淋しい。今、セイロン、チベットの寺はあるが、日本の寺も建てて欲しい」
と。老師はその旅行記に
「無理もないことだ」
と、書き残して居る。(「欧米雲水記」四季社)
 久しい以前から、ブッダガヤに日本寺を建てたいと云うのは、僧俗を問わず日本の仏教徒の胸うち深い願いであった。その願いの灯を一つの炬火にまとめて具現したのが巌谷勝雄師である。師は東京中目黒の古刹、祐天寺の住職であったが、その温厚篤実な人柄は、つとに身近の仏教界に知られて居た。師がひとたび「インド山日本寺」建立を提唱すると、
「巌谷さんがなされることなら」
とまず周辺の仏教界がこぞって賛同し、それが全東京の仏教界にひろがり、それが縁を辿って地方の仏教界に及び、遂に日本の仏教界をあげての団結が達成されたのだった。
 かつて、昭和43年の9月に起工、45年2月に完成して、インド山日本寺は、今、タイ寺の隣に、仏殿と宿泊施設を持ち、又、現地ブッダガヤの人たち一日100人を限って無料診療、施薬を行い、幼い子供たちのための保育に携わる等、地域に密着した布施行に、土地の人々から大そう喜ばれて居るという。
 私はたまたま勝雄師を存じ上げて居たが、インドからたまさか自坊に帰られた時は、竹箒を手に裏庭の金魚池のあたりを黙々と掃いて居られた穏やかな姿を尊く思い出す。

 ブッダガヤを発つ朝、スマナサーラ長老も日本寺にお詣り下さり、私達一行はみな悦んでお供した。日本寺の管理は各宗の廻り持ちで、最初に泊まった時は曹洞宗の若い御住職、その後曹洞宗の尼様がお一人で頑張って居られたが、今は、高野山で真言の修行をされた二人の尼僧によって護られて居る。二人ともまだお若い。異国の空のもとでの重責をよくまあ、明るく爽やかにこなして居られると感心する。
 お別れに、私は三万円寄進した。前述の病院、保育所の運営は一日三万円でまかなわれるからである。日本の仏蹟巡拝者は余りこのことを知らないが、出来れば、三人、五人のグループででも、旅の思いを残してほしい。
 そんな思いのグループが、年に365組あれば、この事業は日本人の良心として、末永く続くのである。

江原通子(エハラユキコ)

・1920年、東京に生まれる。
・東洋大学文学修士印度哲学専攻
・株式会社文藝春秋社友
・日本テーラワーダ仏教協会会員
・随筆家

<BGM> Buddham Saranam Gachchhami
<Illust> 小西淳一 イラスト集 >>>

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