サラナ・ヴィハーラ 自主冥想会に参加して

★ 太田雅彦 NEW

 イラク戦争などの国際ニュースを見ていて、なぜイスラム 教徒とキリスト教徒が対立するのか知りたくなり、小室直 樹著の「日本人のための宗教原論」を読みました。その本 に日本の宗教も解説してあり、「仏教は中国に渡り90度 転換し、日本に入ってくるとさらに90度転換し、インド とは180度転換した。」と書いてありました。そんなバ カなと思い、確かめてみたくなり、引用されていた中村元 博士の著作を読みました。確かにそこに書かれていること は日本の仏教とは180度違う世界であり、大いに魅力を 感じました。さらに読んでみようとamazon.comで検索して いたところA.スマナサーラ長老の著作が関連本として多数 見つかったので何冊か買ってみました。中村博士の著作は 歴史学術的で、現代日本での実践向きではありませんが、 スマナサーラ長老の著作は即実践できる内容なので早速取 り組みました。しかし、実際やってみると同じ姿勢を続け ることで身体が痛くなるのと、すぐに飽きてしまうことで 5分と続きません。独りでは無理だと思い、ネットでサラナ・ ヴィハーラを知り自主瞑想会に参加するようになりま した。45分の座る瞑想はかなり辛いですが、独りではでき ないことが瞑想会ではできるので、やはりこれからも参加 した方がよいと思っています。瞑想会後の茶話会も楽しみ です。常連参加者の皆さんの熱意にはやや気後れしてしま っていますが、同じ志を持つ仲間と話す時間は楽しいもの です。


★ 日置史郎

 ヴィッパサナー瞑想を始めて自分の心がどれほど成長したかと自問すると、正直、よくわからないとしか答えられない。けれど何も変化がないのかというと、決してそうではないと思う。私の好きなお釈迦さまの言葉に次のようなものがある。

「世人は何によって束縛されているのですか? 世人をあれこれ行動させるものは何ですか? 何を断ずることによって安らぎがあると言われるのですか?」

「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」

(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫、234頁より引用)

 瞑想を始める前の、テーラワーダ仏教を知る前の私がこの一節を読んだなら、おそらく「なんとも暗い!」と拒否反応を示したのではないかと思う。けれど今の私にはこの言葉の真実さがしみじみと実感される。なぜなら私の心がなにやらざわついていると感じたとき、自分を観察すると、きまって私がなんらかの思惑=妄想に動かされていることに気づくからだ。そして妄想に気づいたとき、心はいくぶん平静さを取り戻す。こういう経験は瞑想を始める前にはなかったことだ。  瞑想によって変わったところがあるとすれば、こういうところかも しれないと思っている。


高浦達也

『あっ、自分が消えた!!』

我々はひとつの大海の一滴一滴
我々はひとつの大海の一波一波
我々はひとつの果樹園に生い立つ木々
我々はひとつの枝に付いている葉々
我々はひとつの庭に咲いている花々
我々はひとつの空に散りばめられた星々
我々はひとつの太陽から放つ一本一本の光線
我々はひとつの手の一指一指
我々はひとつの家族の一員
世界はひとつの家族
地球はひとつの国
 『パティパダー11月号』のスリダンマナンダ長老の「第二部 悩みを乗り越える」に上のような文章が出てきます。また冒頭に「『私が存在する』と考え、『私』に固執することから、さまざまな苦しみが生まれているのです。」とも書かれています。
 今年5月頃(注:この時期筆者はまだヴィパッサナー冥想の指導は受けておらず、この時行った冥想法は止観の[止]に属すると思われるもの、ただし、スマナサーラ長老の著書から得たヴィパッサナー冥想の知識を少しかえた。ヴィパッサナー冥想は止観の[観]に属するのではないでしょうか? この点ご存じの方御教示のほどを。)冥想をしていた私は自分と外界が同一の物であるという感覚を得て、それから、なんと自分がパッと消えてしまったのです。もちろん、第三者から見れば肉体はそこに存在していたと思いますが、自分がいるという意識が消えてしまったのだと思います。それはかなり明確なパッと消える感覚でした。この時気づいたことは自分が存在していないということでした。
 スリダンマナンダ長老の「我々はひとつの大海の一滴一滴」のように、チベット仏教にやはり大海の教えというのがあり、これは、一滴の木の葉の滴が地面 に落ち、やがて川に合流し、そしてそのまま海に流れる。大海と一体になった木の葉の一滴の滴はもはや大海と区別 がつかないというものです。この木の葉の一滴の滴が我々ひとりひとりであり、大海が般 若心経などでいう空、チベット仏教でいう純粋意識にあたるというのです。これを逆に考えると、ひとつのコップを取り出して大海の海水をすくった時、大海の海水とコップの海水は同一の海水ですが、それを別 の液体だと認識すること。それは誤った認識なのですが、コップの海水を我々ひとりひとり、そして大海を悟りを得て到達する世界と考えると、我々はこの誤った認識の中にいるということになります。(これを無明と呼ぶのでしょうか?)。自己を認識するということは二元的な世界であり、当然そこから区別 、比較、競争、争い、怒り、嫉妬などが生まれてきます。自己を認識するために、自分かわいさ、自己に対する執着が出てくるからです。(これが煩悩?)。そして、自分のため他を傷つけ業を積む。自分がなくなりすべてのものが区別 のない一元的なものだったら(例えば空気。空気その物に、こっちの空気はいい空気で、あっちの空気はダメな空気なんて区別 はありませんものネ!)、比較も争いも怒りも妬みもおこりようがありません。そこにとどまれば永遠に業の積みようのない、静かな世界にいられます。(これがお釈迦様の悟り、そんなことはないか?)。
 指導者の方にお話ししたところ、「それが何なの?」。
 さて、私は仏教の涅槃に少しでも近づけたのでしょうか。それとも?


嶋崎仁哉

 仏教を学んで知識だけに留めておくのは勿体ないです。一つでもいいから日常生活の中で使ってみるとすぐに仏教の素晴らしさがわかると思います。仏教で言うことと世間の常識とは正反対のこともあり、ただ聞いただけでは納得できないかもしれません。しかし世間の常識がすべて正しいのならば、それに沿って生活している私たちに苦しみが生まれてくるのはなぜでしょうか。仏教を実践していくと(具体的には慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想などです)苦しみが少なくなってきます。自分の場合、具体的に言うと大学入試でした。一年浪人して今年東北大学に合格することができました。浪人が決まった一年前、一年間はとても長いと感じました。今振り返ってみるとあっという間だったように思います。考え方によって一年という期間が全く正反対に感じられるというのはおもしろいですね。人間の思考というものは実にいい加減です。入試本番はとても緊張すると思っていました。しかし思っていたほどではありませんでした。案ずるより生むが易し、妄想はひとりでに回転していくのでとても危険です。また、挫けそうなとき自分は死ぬ んだと思うことにより明るくがんばれました。死ぬということは確実なことです。死ぬ ときは何もかも捨てていくのです。死を意識することにより、絶対こうでなくてはならないという執着が減り楽な気持ちにでいることができました。ゲームだったら失敗を恐れずに楽しめるでしょう。そんな風に明るくがんばれるのです。自分はまだまだ未熟者ですが仏教に出会って良い方向に進んでいる気がします。仏教には普遍性があります。だから日常生活の中で、誰にでも実践することにより、具体的な結果 を得ることができると思います。


濱 田 彰

 この約1年半の間に目まぐるしくわたしの近辺に色々な出来事が起こった。まず2003年8月に定年退職でもう会社に行かなくてもよくなったその日、TMS(緊張性筋炎症候群)理論(後述)通 り、腰痛が再発し、2ヶ月近く坐骨神経痛で動けなくなってしまった。10月にインターネットで政木和三博士を見つける。彼は大阪大学工学部教授だった人で、医学部を含む大学の全ての学部、学科を修されて、エレキギター、自動ドア、テレビ、炊飯器、その他約1000種類の発明を無償で提供した人であった。一時期フジテレビのスプーン曲げを科学的な立場で解明しようとして、逆に精神エネルギーの力を認めざるを得なくなってしまった人である。彼自身、前世の記憶を取り戻したらしいが、そのきっかけは高橋信次師との出会いであった。
 高橋信次師はコンピューター機器の製作を営む会社の社長だったが、1976年に亡くなってしまった。全国の講演活動を通 じて、人々の「心の窓」を開かせて過去世の記憶を思い出させたり、悪霊を追い払ったりと、新興宗教のきっかけを作ったらしい。実際の講演活動のVCDも手に入れて見て驚いてしまった。全著書を取り寄せて勉強を進めるうち、それまで約23年間続けてきた勤行(千座行)の間違いに気づき、阿含宗を退会してしまった。しかしながら「八正道」の具体的なやり方(反省でという)が判らず悩んでいるうち、春秋社からパーリ語での長部経典、中部経典の現代日本語訳の本「原始仏教」を見つけて読み始めたが、なかなか難しい。
 そんな中で、スマナサーラ師の「初めての本上座仏教」をみつけ、判りやすくうれしくて飛び上がってしまった。間もなく協会の存在も知り、入会し、インターネットでその膨大な資料に眼を通 すうち、仙台でも瞑想会が行われていることがわかって早速参加した。島影さんからVHSをお借りして、瞑想の方法を教わった。夜寝る前も運転中も慈悲の瞑想を唱えているうちに、夜中の恐ろしい妄想も少しづつ消えていった。おそらく心の波動が変ってきたのだと思う。
 腰痛の方は少しづつ和らいできたが、サーノ博士のTMS理論の本を見つけ、心が腰痛を起こしていることがわかってきた。彼の本を読んだだけで治った人々がアメリカで何十万人もいたとのことである。日本では長谷川淳史氏が「腰痛は怒りである」という本を出している。心の中に押さえつけた怒りが腰痛となって現れているというのである。大分よくなって来たが、太ももが退化してしまったので足の痺れが取れていない。知人も腰痛で寝込んだ時、長谷川氏の本を読ませたら、すぐに治ってしまった。
 ところで槌田敦先生の「エントロピーとエコロジー」という本で、[生命]と[生き方]を問う科学を論ずる中で大気循環、水循環、生物循環と地球の関係を判りやすく教えてくれている。ほとんどの文明の跡地が砂漠化してしまったが、唯一緑地化した文明が江戸文明であり、そこでのカラスやミミズの果 たす役割などの大切さを理解することで、ますます「生きとし生けるものが幸せでありますように」を切に念じる次第です。やはりゴキブリも兄弟だったかもしれないと思うと。世界中の食料を買い集めて、循環を滞らせると全世界が砂漠化するのは間違いのないことでしょう。
 2004年3月に家内の母を亡くし、4月に家内の乳がんが見つかり、大きすぎて(私がいじめすぎて?)すぐに手術が出来ずに、約4ヶ月の入院となってしまった。この間に漢方薬治療にめぐり合って、私自身の病持ちにあう治療が始まった。このような出会いで、こんどこそ本物と信じて、スマナサーラ師のお話や経典(パーリ語)を熟読し、ヴィパッサナー実践ばかりでなく、もちろん七覚支瞑想法も体得し、悟りにいたりたいと願う。最近はテレビも映画も見ないようにしている。夢すらも妄想であると喝破した高橋信次師は正しいと思う。少ない年金であるが、時間がたっぷりあるのはすばらしい事です。今後もよろしくお願いします。


大泉考史

 ヴィパッサナー瞑想を実践してみての感想として私が思うことは、実践している間とても気持ちが落ち着くということを当たり前のようですが、感じます。また、瞑想をした直後の気分も非常にすっきりとした気分で「瞑想したなー」という満足感があります。日常の生活の事を考えみても以前から健康だったのですが、それにも増して健康になっていると思います。なぜそう感じるのかというと、瞑想を始める以前よりも、常に気分が落ち着いて爽快な気持ちで生活できるようになり、怒りや不安などのマイナスな感情がいくらか減少しているように思います。そう感じる事も又気分がいいものです。もちろんマイナスな感情がまったくなくなることはありませんが・・・ 
 マイナスな感情がまったくなくなったり、非常に少なくなる事は理想ではありますが、私のような凡人には不可能な事と思います。しかし、自分の感情がコントロールでき、不快な感情を少しでも減らす事ができているのは事実だと思いますし、それだけで十分満足しています。それだけでも瞑想する価値があると思います。
 そういった思いがあるために、一生続けていきたいと今は思いますし、続けなければ意味がないと考えています。そして、なるべく定期瞑想会には参加させていただいております。自分にとっての定期瞑想会の意義は行けばヤでも瞑想できますし、自宅でやるより集中力があるように思います。また、島影さんをはじめ瞑想会に参加されている方々のお話をお伺いして、参考になったり、自分もがんばって続けていこうという刺激にもなります。また瞑想会に行くことによって、自宅で瞑想することの弾みになり、有意義だと感じて非常に感謝しています。


嶋崎仁哉

 私がお釈迦様の教えに出会うことができたのは全くの幸運でした。そして今まで自分が抱いていた宗教というイメージとは全く異なっていることに驚きました。宗教というと反論の成り立たない絶対的なものであるかのようなイメージが私にはありました。信じるか否かの世界です。しかし、お釈迦様の教えはとても合理的で反論のしようがない明確なものでした。一方で反論があるのならどうぞしてくださいという姿勢も良心的であると思いました。仏教が科学的であるというのもうなずけます。アビダンマの物質論にしても言葉は違うにせよ言っていることは科学と同じだという印象を受けました。養老孟司氏も「現代科学をつきつめていったら仏教になった。しかもかなり古い経典の内容と同じになった。」と言っているようです。しかし科学と決定的に違うのは、仏教は頭で理解するだけでは不十分で、実践しなければその真意はつかめないという点だと思います。ヴィパッサナーというのは誰も考えつかなかった第三の道でお釈迦様が長年の苦労のすえに到達した悟りに至る唯一の道であると聞いています。そのような教えを何の苦労もなく知ることができるのはお釈迦様の慈悲をはじめとする今までの多くの方々の努力あってのことだと思います。そのことに感謝しつつ実践を怠らないよう日々精進していきたいと思います。


徳 島 愛

 私は、ある本の中で、「覚醒(悟り)の教えは、初期仏教・禅・密教・イスラム教の密教スーフィー派にある。特に仏教に明確に現れている」という内容を読んでから、今までの仏教への印象の悪さを捨て「初期仏教の本を読んでみよう!」と思いました。その結果 、A・スマナサーラ長老の本に出合い、仙台で自主冥想会をやっていることを知り、参加するようになりました。
 今回のこの「自主冥想会」の感想について書くことになったとき、ふと「どうして私は、自主冥想会に参加しつづけているのだろう?」と考えました。その答えとしては、個人的に「本を読んだり、説法を聞いたりすること以上に冥想など実践することが大切だ」と思っているので、実践できる良い機会だという事。また、いつも冥想会に参加している方が、「ここに来なきゃだめだよ。家で冥想はなかなかできないよ」とおっしゃっていますが、本当にそのとおりで、自主冥想会ほどの長時間、家で冥想するというのはなかなか難しい事。そして、ヴィパッサナー冥想を続けることで、あまり自分の周りで起こることに振り回されなくなった事。以上が参加しつづけたいと思う大きな理由だと気づきました。
 今の時代、人類の歴史の中で一番?と言われるくらい、悟っている人が増えています。私の知人にも「悟っている人」が増えてきました。私にもそのチャンスが近づいてきているのかもしれません。そういう時代に生まれてきて、悟りの教えを学び、実践できる場をあたえられ、悟りへ向かえるのは本当に「ラッキー」な事だと思います。
 悟りへ一歩ずつでも近づけるように、これからも自主冥想会への参加と冥想を続けていきたいと思います。


奥山淳子

 私はサラナ・ヴィハーラの冥想会に参加して、初めて冥想を体験しました。きっかけは長い間お釈迦様の教えに魅力を感じていて、それに近づきたいと思ったことです。
 始めてまだ半年くらいですが、最初の頃は座ることに集中できず我慢して時間をやり過ごしているという感じでした。でも少しずつ冥想のよさを実感できてきて、最近は深く集中でき、長い時間座っていられるときもあります。
 ヴィパッサナー冥想は悟りを目指してやっていますが、その段階にはまだまだ果 てしない道のりです。座って自己を観察すること、それが精一杯です。それでも、とても遅いスピードでも、智慧が得られる瞬間を実感したいと思いこれからも続けていきたいです。
 この悟りを目指して冥想をするという同じ思いを持った仲間と共に修行し、勉強出来ることは私にとって大きな喜びです。このサンガが更に広がっていくことを願っています。


吉田香文

 私は姉に勧められて冥想会に参加してみました。
  昨年、姉から「頭が突然鋭くなる冥想法」の本を借りて、自己流で実況中継を続けてきました。すると今までのイライラや不快な感情がふっと消えてしまったのです。今までニューエイジー等のエクササイズをして、「愛と許しを」と思っても不快な感情が消えることはなかったのに…。これは本物だぜひ続けてみようと思いました。
  この冥想法で悟りへの道は近いと思いますので、頑張っていきたいです。


奥田一洋

 私がこの冥想会に参加しようと思ったきっかけは、冥想を通 して自分の内なる「心の声」を聞きたいと思ったからです。私は以前からこういう精神世界には興味があり、いろいろな本を読み漁りましたが当然のごとく頭で考えて理解できる世界ではありません。
 人間は自分のことは何でも理解していると思いがちですが、それは1割にも満たずあとの9割は無意識だと聞いたことがあります。世に言われる天才達はこの無意識(心の声)を上手に引き出すことができた人といえます。冥想はこの(心の声)と接することができる唯一の方法だと思います。
 とかくこの世は損得重視の競争社会で、戦争や犯罪、心に病を持った人々で溢れています。一人でも多くの人が冥想を通 じて自分を深く見つめ、心に平安を求めれば21世紀はすばらしい時代になると確信しています。
 最後に自分を深く見つめるという意味では数ある冥想法の中でも、ヴィパッサナー冥想は手軽にできて効果 が高いと思います。私もこの冥想法を活用して意識と無意識の境界のない状態(悟り)に近ずけるようにがんばっていきたいと思います。


西澤正視

 退職したら何もすることが無く朝起きて夜眠るまで焼酎を飲んでいたら、体がどことなくおかしい。怒りっぽくなったし、世の中が暗く見える。医者に診てもらったら、肝臓の数値が普通 の人の7〜8倍あり肝硬変の疑いあり。モルヒネが効かないのは肝ガンだけであり、とても悲惨な死に方をすると言われ、禁酒になった。アル中が酒を飲まないのは苦しいこと限り無し。お正月に何度も宴会に出席して一滴も飲まないのは地獄である。人の顔を見ると酒瓶に見える。
 先が短いと思ったら猛烈に勉強の意欲が湧いてきた。女房や近所の人に「歩きなさい」「旅行に行こう」と言われたが、気が進まない。新聞にて冥想があると載っていたから行ったら200人程の人が居た。長老の話、冥想の指導を受け、これなら私に合いそうだとこれから欠席をしない覚悟を決意した。2回目に行ったら少数の人数で、気が抜けて、時々欠席したが、なるべく参加するようにした。指導者も参加者もとても良い人で私の話をよく聞いてくれて感謝しています。参加した限りは一生懸命やることにした。真剣にやった。これからも欠席せず真剣にやることを心に誓っている。


前川原構治

 週に一度、自主冥想会に参加するようになって、自分の体の状態や心の動きを客観的に観察する訓練を繰り返してくると、妄想や煩悩に捉われている自分に、以前よりも気がつくようになり、また、同時に、他の人の、心の動きも、見えてくるようになって、自分も他人も一緒なんだなと思われ、以前は、人間嫌いで、人付き合いも怖かったのに、自分も他人も、愛しく思えるようになり、生きるのが非常に楽になってきたと実感しています。
 週に一度、たった二時間の礼拝と冥想で、こんなにも心が穏やかで、安らぎに満たされるようになるとは、予想もしませんでした。本当に、ヴィパッサナーの実践は、素晴らしいと思います。有難うございました。


鈴木麻由子

 ふとしたご縁がきっかけでテーラワーダの冥想会に参加しました。以前から冥想に関心がありましたが、スマナサーラ長老の話は予想以上に素晴らしいと感心しました。以来、冥想会への参加もさることながら、長老の著作を読んでいます。
 その効果は少しですが私の心の変化に出ています。とにかく物事にふり回されなくなり、ずいぶん気持ちが軽くなりました。若い時から探していた実践法に出会えたと思います。この出会いを今後も大切にして自分への成長につなげて行きたいと思います。


 

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