サラナ サラナ

 

笹倉 明 『〈連載〉タイ僧暮らし月齢案内~テーラワーダ仏教を歩く~』 
第2回「月齢で生きる理由」
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布施の中味

 帰路は、太陽を背にして歩くことになります。すでに高く輝きを増して、今度は前方にながい影をつくります。バイクの人に荷を預けたので、やれやれと思っていると、その日はやはりとくべつで、ふだんはあまり見かけない顔ぶれも加えてひきもきらず、いただいておいたビニール袋がまたふくれはじめます。経を唱える声もかすれてきて、この分だと寺へ帰り着けるかどうか、危うくなってきます。  そういえば、一月一日のほうの新年(新正月)には、やはり膨大な量を運びきれず、途中で、顔なじみのショウガ湯の店の小母さんにお願いしてトゥクトゥク(サムローともいう客席付き三輪車)を停めてもらい、それまでの荷とともに乗り込んで、やっと寺まで辿り着いたものです。が、そのときと同じ状況になってきたのです。

トゥクトゥクからの布施 トゥクトゥクからの布施

 

 二つ目の袋も一杯になって、もうこれ以上は持てないような状態になっても、在家の方の布施は容赦がありません。それを断れないのが原則で、断ると、せっかくの善意を拒むことになって在家を悲しませるからです。それがわかっている人たちは、さすがに私が二つの袋と鉢に一杯の荷に苦しげであることを見てとってか、手持ちのビニール袋を取り出し、鉢のものをそれに移し替えるのを手伝ってから、自分の布施を鉢に入れる、といったことをするのです。  かつて、首都バンコクに住んでいた頃、在家として、行きつけのコーヒー屋から托鉢風景を眺めたものだけれど、その寺の僧の場合は、しっかりとお付きの寺男(デック・ワット〔タ〕〈寺の子供、の意〉)がいて、布施された品を横合いからつかみ取り、鉢から大袋へ、手押しの荷車へと移し替えていたものです。  そういうデック・ワットを抱えられる寺はチェンマイには少なく、私の托鉢ルートではたまに見かける程度です。それゆえ、先のピックアップ車の人たちの働きは貴重で、有難いというほかありません。  はじめの頃は、たとえば役所のようなところが僧のために人を雇っているのではないかと思っていました(これはいかにも俗人的思考)が、まったくそうではなかったのです。すべてが自前で、どこからも何の援助もない、個人(自主)の働きであることがわかってきます。そこに補助金などで公的な機関が関与することは一切なく、布施する側とされる側の純粋な関係でしかないところに、タイ仏教のすごみともいうべき側面をみる気がするのです。むろん、一部の王室関係の寺などはそのかぎりではないものの、ほとんどの寺は運営自体が自前の、自助努力あるのみなのです。(ゆえに、わが寺では、例えば週末には境内を露天商に〈いくばくかの布施と引き替えに〉開放しているのですが。)  やっとの思いで寺に帰り着いたのは、いつもより一時間近く遅い八時前のことでした。というのも、帰路の布施(結局、往路と同じ三袋)を運ぶのに、休み休み、手と肩の痛み、足裏の疲れ(荷が重いので地面への圧力も増す)を癒しながら、であったからです。  いったい何が入っているのか、一部を公開してみます。むろん、これらを次々といただいていくと、ほどなく胃袋がハレツしてしまうわけですが……。  “赤飯+惣菜(ブタ肉とブロッコリ)、小豆のココナツミルク和え、カオソイ・タット二個(チェンマイ名物)、紙パックのソイミルク二個、あんパン(タロイモ、白アン)合わせて二個、クリーム・ケーキ(一パック)、バヤリース(グレープ)一本、ポテトチップス一袋、茶碗蒸し、リンゴ一個、マンゴー二個、バナナ一房(十二本)、パイナップル、パパイヤそれぞれ一袋(カットしたもの)、マッカム(タマリンド)一袋、オレンジ(みかん)五個、ミルク(缶)、水(大小のペットボトル五本)、アーモンド、ストロベリーそれぞれのジュース(紙パック)、乳酸飲料二本、低温殺菌牛乳、緑茶のペットボトル、ネスビタ(粉末飲料)、茉莉花(ジャスミン)茶一箱、菊花精(ナム・ケックファイ〈健康飲料〉の粉末)一袋と水と缶詰(魚)と米(精米)のセット、クスリ各種(熱さまし、薬草液〈のど用〉など)、カミソリ(替え刃付き)・歯磨きセット、線香とローソクのセット(箱入り)、ロータス(蓮)の花束、マーマー(インスタント麺)三袋、クラッカー(パック)二個、ショウガ湯一袋、サンカヤー(甘いもち米のデザート)、カオニャオ・マムァン(甘いもち米とマンゴーのデザート)、白米(ご飯)とカオニャオ(もち米)それぞれ三袋、クシ焼き(ブタ肉)二本、ムー・ヨー(豚肉ソーセージ)、ケップ・ムー(豚の皮-チェンマイ名物)、カオ・マンカイ(蒸し鶏とその汁で焚いたご飯〈スープ・タレ付〉)、ゲーン・キャオワーン(グリーン・カレー)、竹の子・空芯菜の惣菜それぞれ一袋、ウェハース(ミルク味とチョコレート味)合わせて二袋、どら焼き(と日本語で表記)一個、インスタント・コーヒー(五パック入り)……“  まだあるのですが、だいたいの感じは出ているかと思います。こんなにいただいてどうするのか、という疑問が次にくるはずですが、食堂へ持っていけば冷蔵庫もあるし、托鉢に出られなかった僧や、寺の従業員も昼には食べるので、かなり捌(は)けていくことになります。釈尊の時代には、托鉢で得たものは原則としてその日のうちに消費すべし(例外でも七日が限度)、というのが戒であったけれど、いまはとてもそういうわけにはいかず、保存のきくものは房においておきます。従って、マーマー(インスタント麺)や缶詰などは山となっており、頃合いを見計らって、喜んでもらってくれる人に差し上げることになります。

 

水はタイ文化のキーワード

 心のことをタイ語で「チャイ」(もしくは「チット」〔注〕)といいます。丸いものの類別詞、ドゥワンをつけて「ドゥワン・チャイ」とすることもあります。心そのものが丸いものなのでしょう。チャイ・ディーはよい心のこと(「親切」の意にも使う)ですが、もっと深い意味合いでは、ナーム(「水」の意)を使って、「ナム・チャイ」という言い方があります。寛容で優しい、まさに水のような円やかな心のことをいい、最高の賛辞とされます。 その水をぶっかけあうお祭りは、本来は雨乞いの行事で、来る収穫期の豊作を祈願するものであったそうです。タイではもともと北部、チェンマイあたりの発祥であるようですが、昔は、ソンクラーン、といいながら相手の肩先にコップで水を注いで差し上げるだけのおだやかなものでした。私も在家の頃、バンコクの裏通りを(水掛け合戦を避けて)歩いていると、年配の女性からそうされたことがあるのを憶えていますが、いまもそれは残っていて、とくに仏像に水をかけたり、僧のカラダにかけるとご利益(りやく)があるというので、お祭りの初日は街をあげてその配慮をします。

仏像への水掛け 仏像への水掛け

 

 仏像パレードというのがそれで、各寺の在家がトラックを仕立て、仏像と共に乗り込んで、街の真ん中を流れる河、ピン川の橋〈サパーン・ナワラット〉の袂(たもと)から真っ直ぐに伸びる道を(ターペー通りから城壁を越えてラチャダムヌーン通りへ)約三キロ、終点のワット・プラシン(この名刹の仏像が先頭)までパレードする、という行事です。

仏像パレード〈パンオン寺前〉 仏像パレード〈パンオン寺前〉

 

 そのトラックの荷台に積んである仏像へ、道端からホースやバケツで、あるいは水デッポウで、容赦なく浴びせかけるわけです。この場合は、相手が仏像であり、痛いともヒドイともいわないけれども、街中でくり広げられる人と人の場合は、ときに死人も出るはげしさ(バケツの水を受けたバイクが転倒するなどして)、酔っ払って堀に落ちて溺れ死んだ人もいるという、万事がおだやかであった昔とはすっかり変わってしまった、タイ変なお祭りでもあります。  むろん、僧はそのような狂騒とは縁がありません。が、わが寺院(パンオン寺)の場合、その仏像パレードの道筋にあるため、午後の暑い盛りに縁台を出し、道行く人へ、これも水かけのサービスをします。水は、一般の水道水ではなく、寺の井戸から(モーターで)汲み上げた水で、これに瓶の香水(ナム・オプ)や乾燥花(ハーブの一種)を加えて香りをよくしてあります。経をあげて作る聖水とは違うものながら、ただの水ではないそれを、茅(かや)でつくった束でもって、聖水を振りかけるときと同じように、ひと振り、またひと振りと、ふり撒いて差し上げるのです。すると、よくわかっているチェンマイっ子や、何だかよくわからないけれどもお寺の前で僧がやっているからよい水なのだろうと思って掛けてもらおうとする観光客(近年は中国人が非常に多い)やらが集まってきて、パレードとはまた別の人気です。

僧の水掛け〈パンオン寺前〉 僧の水掛け〈パンオン寺前〉

 

 そして、それを見物している私へも近寄ってきて、手のひらや腕に水をかけていく、これはタイ人女性がけっこういます。仏像のみならず僧に水をかけるとご利益があるという話で、ただ、僧の衣には手を触れられないので、恐るおそる、そっと、遠慮がちにコップを傾けるだけなのですが、これがひんやりとして心地よく、自分が僧であることを思わせてくれる瞬間です。  その間にもパレードは通り過ぎてゆき、今年はわが寺は不参加ながら(というのも在家の面々の都合がつかず)、去年は顔なじみの在家(男性)が乗り込んだトラックが前を行くときは、ひときわ大きな歓声が沸き起こったものです。  旧市街地(堀と城壁〈いまは一部〉に囲まれた四方がそれぞれ一・六キロ強)だけで三十八の寺がひしめくチェンマイには、ラッタナコーシン朝(バンコクの現チャクリー王朝)より五百年ほども古いラーンナー王朝の首都であっただけに名刹も多く、ワット・プラシン、ワット・チェンマン(ラーンナー王朝最古)、ワット・チャーンテーム、ワット・スワンドーク、ワット・チェディルアン、といったところがよく知られています(あとは観光名所としてドーイ・ステープがあり、これは仏塔が有名)。パレードに出演する仏像には名前がついていて、なかでもチャーンテーム寺の「プラチャオ・フォン・セーン・ハー(十万回の雨を降らせる仏)」などは(ブッダ〈仏〉をプラチャオ〈本来は「神」の意〉と名づけるのは北部に特有のもので、バンコクなどではプラブッタ・ループ〈文字通り「仏像」の意〉といいます)、いかにも雨乞いのお祭りにふさわしいものといえます。  わが寺院は、そうした有名どころではないものの、やはりラーンナー王朝の時代、仏暦二〇四四年(西暦一五〇一年)、「オン」さんという「パン(千)」ライ(畑)の土地持ち且つ軍人であった人が建てた寺で、以来、めんめんと続く、いわば中堅どころです。小さくもなく大きくもない、ただ樹齢のながい熱帯果樹の多さは、まさしくマンゴー園の精舎というにふさわしい、そして、現在の仏塔(旧仏塔は仏暦二五四九〈二〇〇六〉年八月十八日に豪雨で倒壊)の名“プラ・チェーディー・サーリーリカターㇳゥ・スィリラッㇰ〔夕〕(「ブッダを守る塔」の意)”は、前国王ラーマ九世(プーミポン・アドゥンヤデート王/二五五九〈二〇一六〉年十月十三日崩御)が名付け親であり、つまりは王統派の寺院ということになるようです。

仏塔〈パンオン寺〉 仏塔〈パンオン寺〉

 

 それはさて措き――  タイ文化のキーワードは、「水」と「月」だというのが私の考えです。これは在家の頃から思っていたことで、いまも変わりません。人々の水への思い入れは格別なものがあって、他国の追随を許しません。先に記したナム・チャイにはじまり、人の名前(女性)にもあるし、河のことをメー・ナーム(「水の母」の意)と呼び、体液のあれこれ、ナミダはナム・ター(目の水)、鼻水はナム・ムーク、また、飲料水のさまざま、ジュースの類はほとんどナームをつけて、ナム・ポンラマイ(果物ジュース)の果物に当たるものを入れ替えるだけ、食品にも代表格のナム・プラー(魚露)をはじめ油(ナム・マン)の類にも使います。さらに、自然現象のさまざま、滝はナム・トック(落ちる水)、洪水はナム・トゥアム(あふれる水)、泉はナム・プー(湧く水)〈従って温泉は熱い湧き水、ナム・プー・ローン〉、そして、仏事における大切なつくりもの、聖水は、ナム・モン(経〈ブッダの言葉〉の水)、といいます(これについてはいずれ)。  そして、水はまた、先に記した通り、死後の世界にいる人たちへの、ブン(徳)の配送役も果たします。水は清水であればよく、多少は問いません。先のおばあちゃんの場合は、小さな(最小の)ペットボトルの水、よく小額のお札と共に布施してくれる男性の場合は、大き目のペットボトルから地面へと直接、ドドッ…、と注ぎます。また、本堂での勤行の際は、それ用のきれいな容器があって、私などはお酒の徳利(とっくり)を思い起こすのですが……。

 

月の満ち欠けと人の節目

 水にまつわる国民行事は、他にも「ローイ・クラトーン(燈篭流し)」というのが、これは太陰太陽暦(陰暦)に基づいてあります。これについては、その時期がくれば触れることにして、いまは措きます。  ただ、この書きモノのタイトルにもある、「月齢」なるものについては、まえがきを省いた代わりに少し触れておきます。  先ほど、水とならんで「月」がタイ文化のキーワードだといいました。人が月面を踏んだらしいニュースがあって以来、すっかり神秘性が薄れてしまったのは残念なことですが、この仏教国においては、そんなことはどうでもよく、古来、プラ・チャン(お月様)と敬称で呼ぶ、そのままの感性でもって日々を過ごしている、といってよいかと思います。それは、仏教と深く関わっていて(今後、ただ「仏教」という場合は原則としてテーラワーダ〈上座部〉仏教のことを指し、タイに特徴的な場合はタイ仏教とします)、月に四度の月齢、すなわち新月、半月(上弦・八日月)、満月、半月(下弦・二十三夜)、そして再び新月へと巡る、つまり、それぞれの節目を仏日(「ワン・プラ」という)と決めて、大事な“お寺参りの日”としているのです。そして、なかでも大事なのは満月の日で、僧は前日にアタマを剃ります(これを「ワン・コーン〈剃る日〉」という)。  なぜ満月がもっとも大事であるかというと、月の地球への影響がいちばん大きくなるためで、つまり人の命にも大いに関わってくる日だからです。その前後に重大な交通事故がもっとも多くなることは統計的にも出ているし(かつて兵庫県警察本部交通企画事故統計係の職員の調査で、うっかり〈注意力散漫〉事故は半月前後に多く、中でも人身事故は第一に満月、次に新月に多いと出ている〔参〕)、母胎がうごくので出産することも多くなるし(私の母もそうでしたが)、潮の干満とも関わっているし、オオカミがコウフンして月に向かって吠えるというのもその通りで、すべての生きものが何らかの影響を受けるのが満月をはじめとする日々です。(私が在家の頃、バンコクで犬に咬まれたのは新月の日でしたが。)要するに、人のライフサイクルの節目が月に四度来るということで、その日にお寺に参って心身を清め整える、律するということが行われるわけです。  わが国では、明治五年までは優秀な天保暦(中国の農暦をベースに改良を加えたもの)が人々と共にありました。農作物の作付けほかその年の天候予測はむろん、四季の区分と季節感(文学上の表現、俳句の季語などもこれに基づく)、春分、秋分とそれらに伴う仏教行事なども大事な生活の(こころの)拠り所であったのです。この大自然、宇宙の原理は、これを無視すると人間界によからぬことを引き起こす、というのが言い過ぎであれば、非常な不利益を被ってしまうものだと私は思います。そして、これを葬り去ってしまった明治政府は、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)という暴挙と共に、取り返しのつかない間違いを犯してしまった、というのが私の考えです。西洋に媚(こ)び、へつらうにもホドがある、新政府とその関係者がなしたことは、公教育の現場から仏教(ここでは古来の日本仏教)を遠ざけたことの非も含めて、後には愚かしい戦争へと突入していく素地をつくったとしか思えません。わが国の一部に旧暦を復活させようとする動きがあるのは歓迎すべきことで、ながい民族の歴史の財産を「旧」の名のもとに放置しておく手はないはずです。  くり返せば、明治政府の犯した過ち、その大きなツケは、人々から伝統的な仏教の精神を失わせ(神仏習合的であったのを神国へと偏らせ)、いまに通じる損失(後遺症)をもたらしたことは強調しておきたいと思います。なぜ、このタイ国のように、太陽暦と共に並存させなかったのか。その思慮の浅さは、いまは開国以来の英雄として持ち上げられる人たちがそうであったのです。むろん全否定するわけではなく、明治に始まって戦前(軍国主義が全土をおおう)までは、教育における精神性、人間教育の大事を主眼とするもので、戦後のそれとはまるで異なる良さを持つものではあったのですが……。

注: 末子音のtはほとんど無声。今後、タイ語の末子音(t、kなど)は小文字で表す。
  〔夕〕=タイ語、〔パ〕=パーリ語。
参考文献:「旧暦と暮らす」(松村賢治著 ビジネス社)

 

プロフィール

プラ・アキラ・アマロー(笹倉明 ささくら・あきら) Phra Akira Amaro 一九四八年、兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒。広告代理店、フリーライター等の職を経て、一九八一年『海を越えた者たち』で第四回すばる文学賞佳作入選。一九八八年『漂流裁判』で第六回サントリーミステリー大賞受賞。一九八九年『遠い国からの殺人者』で第一〇一回直木賞を受賞する。主な作品に、『砂漠の岸に咲け』『にっぽん国恋愛事件』『旅人岬』等。二〇〇五年にタイへ移住、二〇一六年春、チェンマイ(パンオン寺)にて出家し、現在に至る。