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2019.10.23

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吉福伸逸さんはそれに答えて……

出会う人それぞれの吉福伸逸

吉福伸逸さんという人は多面的で、とらえどころがないということを前回のブログで書いた。身近な人でも吉福像はそれぞれ違う。人間みんなそんなものだと言えばそれまでだが、表面的な印象ではなく、深くそれぞれの人の心に刺さり、機能しているのが吉福さんの吉福さんたるところではないか、などと後付けの私は勝手に思っていたりします。

 

吉福さんは1979年、ラム・ダスの『ビー・ヒア・ナウ』を翻訳した年にC+Fコミュニケーションズという組織を立ち上げる。この組織を母体として、数々の翻訳やワークショップ活動などが展開していく。もしかすると日本版のエサレンのようなものを構想したのかもしれないし、コミューン運動に連動した吉福さんなりの発想だったのかもしれない。

 

そのC+Fコミュニケーションズのメンバーで、多くの翻訳本の制作で吉福さんと共同作業してきたのが、『静かなあたまと開かれたこころ』の編集陣の一人、小川宏美さんだ。

僕が最後に吉福さんと直接会って『世界にありながら世界に属さない』の打ち合わせをしたときにも、制作協力者として小川さんは同席していた。今回は仕事を通して吉福さんと長い時間を共にした小川宏美さんに、その吉福像を寄稿してもらった。

吉福伸逸氏

 

* * * * *

 

「壁にぶつかって、なんとかそれを乗り越えたということですけど、壁の向こうには何があったんですか?」

 

 私が出会った頃の吉福伸逸は30代後半で長髪だった。初めて吉福の仕事を手伝ったのは新高円寺の一軒家の事務所で書いた原稿。その頃のC+Fはそれほど忙しくなく、それぞれがそれぞれのペースで仕事をしていた。あるとき、吉福に「ちょっと手伝って」といわれてやったのが翻訳原稿の清書だった。おそらく「呪術師カスタネダ」だったと思う。私はその本の内容については何もわからないままにその作業をした。それが1982年から83年にかけての冬のこと。それから自分の仕事をしながら、ときどき吉福の原稿の手伝いをするようになった。

 私がC+Fに行くことになったのは1982年3月。同僚がもらってきたC+F開催の編集塾に参加するためだった。それは私が自分の仕事に行き詰まりを感じているときにめぐりあわせた偶然だった。

 塾が始まっても吉福との関わりはなかった。ただ、塾長から「吉福さんはすごい人なんだよ」と聞かされていただけだ。私は人の意見には左右されない。自分で確かめ、自分で納得しなければ動かない依怙地な性格だ。吉福のことも何を吹き込まれようと何の興味ももっていなかった。本当に出会うまでは。

 吉福との初めての会話は編集塾でのインタビューだった。塾生の何人かが吉福に質問した。私もそのうちの一人だった。私の前にすでにいくつか質問がなされ、吉福の半生について聞いていた。私はそれらの話を受けてこう聞いた。

「壁にぶつかって、なんとかそれを乗り越えたということですけど、壁の向こうには何があったんですか?」

 吉福はすぐに答えた。

「何もなかったんだよね~」

 吉福の言い方がおかしくてその場にいた全員が笑った。私も一緒に笑った。その先は覚えていない。しかし私はずっとそのときのことを映像で記憶している。必死になって壁をよじのぼっていく。やっとたどりついたと思って壁の向こう側を見てみたら、そこには何もなかった。ぞっとするような話だ。吉福はふざけてはいなかった。本当のことを言ったのだ。ただ、おもしろおかしく。

 それから半年の編集塾の受講が終わる頃、無職になっていた私にC+Fでアルバイトをしないかと声がかかった。C+Fではそれぞれが自分の仕事をしていて、私も同じように出版社から受けた仕事をしていた。そして、毎日ほかのメンバーと一緒に夕飯を食べていた。もちろん吉福も一緒だった。

 

 1987年2月、河口湖。

 カリフォルニアから来たゲシュタルトセラピストのリタ・ローエンとJ.Z(名前は忘れた)、それに吉福伸逸のセラピーが行われた。夕刻に集まってきた約50人が、その夜セラピーを受けた。最初に一人一人「いま現在の思い」を話した。ほとんどの人が「ワクワクしている」というような様子だった。すると、全員の話を聞いたリタがこういったのだ。

「いま言ったことはすべて忘れなさい」

 リタは見透かしていた。このセラピーに参加することで誰もが「何かが変わる」と期待していることを。期待するから落胆するということを。セラピーは「してもらうもの」ではなく、自分が「する」ものだ。吉福伸逸はセラピー参加に際して「準備ができたらくればいい」といっていた。準備ができていなければ必要ない。変化は誰かが起こしてくれるものではなく、自分が起こすのだから。

 

 セラピーは自分を見つめる場なのだと私は考えている。生活の中ではなかなか自分自身を振り返ることがない。自分自身が自分のことを放り投げているからだ。

 吉福伸逸は「日常」と「非日常」を分けない人だった。いつでも、どこでも、彼は「いま」「ここ」にいた。

 私が吉福といたのは、私がそれを選んでいたからだ。吉福はいつも「自分が何をしたいのか、みつけなさいね」というようなスタンスだった。また、私が道に迷ったときは「ひろみちゃんはどうしたいの?」といわれた。こんなに気が強い私でも迷う。自分自身のことなのに、自分で決められない。違う。それは決められないんじゃなくて、逃げているだけ。どうするか、自分で決断すればいいだけのことなんだ。

 

『静かなあたまと開かれたこころ』を制作

『静かなあたまと開かれたこころ』制作中の編集会議。左から『別冊宝島⑯ 精神世界マップ』は吉福氏が編集。『静か~』の企画・編集者の堀渕伸治氏も執筆。中央はラム・ダスの1994年来日ワークショップのチラシ。右端の『トランスパーソナル ヴィジョン』は吉福氏が監修し精力的に編集していたという。小川氏も編集に参画していた。

 2012年秋、神楽坂で吉福と一緒に食事をした。私が先に歩いて坂をすたすた登っていると、吉福は「ひろみちゃん、速いなあ」と言った。「えー、普通だよ」と返した私は、吉福のことをやっぱり年をとったんだなあと思った。しかしその半年後、それがなぜなのかがわかって愕然とした。

 2013年4月30日、その日私はハワイへ発つ日だった。吉福に会うために。でも、間に合わなかった。

 ハワイは静かだった。いつもと変わらなかった。何も変わっていないように思えた。でも、私は変わっていた。大きく変わっていた。

 日本に戻ってきた私は吉福の本を作ることになった。吉福の最後の本を作るというミッションだった。私はその間ずっと吉福とともにいた。2年がかりでようやく形になった本は『世界の中にありながら世界に属さない』。そこに書かれているソースは、私が吉福から離れてからのものだったが、吉福は変わっていなかった。変わっていたとしたら、社会だ。その中に吉福もいるのだから必然的に吉福も以前とは変わっていただろう。本が完成したとき、あーこれで吉福の本は最後なんだ、と私は思った。

 けれどもまた、私は吉福とともに歩き出した。もう一度「最後の本」を作ることになったからだ。

 今回の本『静かなあたまと開かれたこころ』には、私が出会う前の吉福の原稿から、私が一緒に作業していた頃のもの、そしてハワイへ渡ってからのものがそろっている。吉福はこんなに多くの仕事を残したのかと驚くばかりだが、本人はそのときそのときを生きていただけだというだろう。前作はコンパクトだったが、今回は削っても削っても大著となり540頁になった。しかし、これは吉福伸逸のほんの一部にすぎない。そしてこの中に彼は生きている。制作中はこれが最後の本だと思って作業してきただけだったが、完成した本を手にとるといつでもこれで吉福に出会うことができるとわかった。そして、吉福に出会えなかった人たちに彼を知る手がかりを残せたのは私にとっての喜びとなった。

『静かなあたまと開かれたこころ』

 1989年に吉福がハワイへ渡ったあと、私自身はセラピーとは縁がない。けれどもあの数年で学んだことは私のからだとこころのなかにいまも息づいている。

 吉福伸逸は生きることをごまかさずに「見つめる」ことを教えてくれる。彼自身がそうであったから。吉福伸逸は自分のからだから離れたが、私はより身近に感じるようになった。

「ひろみちゃん、あなたはどうしたいの?」

 いつもそう問われている。いま、ここで。

  小川宏美

編集者。C+Fコミュニケーションズ、C+F研究所のスタッフとして、吉福伸逸と活動を共にした。

 

 

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刊行記念イベント

『静かなあたまと開かれたこころ――吉福伸逸アンソロジー』(サンガ刊)の刊行記念イベント(東京・下北沢の本屋B&B)で、10月27日(日)に開催します。

 

http://bookandbeer.com/event/20191027a/

 

 

【出演】おおえまさのり×田口ランディ×堀渕伸治

【日時】10月27日(日)15:00~17:00 (14:30開場)

【場所】本屋B&B