社長ブログ(ほぼ毎週金曜日更新)
いよいよオンラインでスリランカへ―「ブッディズムメジャー」に触れる旅
人はなぜ、メジャーで物事をはかるのか?
人は赤ん坊のときは、
「はかり(メジャー)」
を持って生まれてきたわけではない。
しかし、だんだん大きくなるにつれ
このはかりがあることを、
親から、また学校で、教えられる。
なぜはかりが必要なのかというと、
測りがないと生きていけないからである。
小さいころは単純なので
そのはかりの数は少ない。
このはかりが何でできているかというと、
「欲」でできている
その欲と言うのは、
五根にまつわる
「色欲」「声欲」「香欲」
「味欲」「蝕欲」や、
また、「食欲」「財欲」「色欲」
「名誉欲」「睡眠欲」
などでできている。
もちろん、このはかりを使う必要がないときは、
使わなくていい。
しかし、だんだん大人になっていくと、
自分で勝手に使い始める。
その欲というはかりの使い方も
はじめのうちはシンプルで
1つずつ使っていたが
やがて大人になりと使い方も高度になり、
組み合わせて使うようになる。
3つや4つの欲とかを、
複雑に絡み合わせたはかり方もできるようになる。
アイデンティティを保つ行為の苦痛
また、なぜそんなにはかりを使うのかというと、
相手と比較して、
自分のアイデンティティを保つためである。
その複雑怪奇になったはかりの使い方は、
当然、他者である相手も使っているのだと仮定して
やがていつも、
「自分と同じように、相手も自分自身をはかっているんだ」
と決めつけてしまう。
これは、時としては喜びも与えられるのだが、
ほとんどの場合は、苦痛でしかない。
このはかるという行為が嫌になって
どんなに遠くに逃げたって、
ぜったいに逃げられない。
1日24時間、365日、
はかるという行為からは、逃げられない。
このはかりは、生まれた場所によって、
味や香りが多少違う。
僕が高校時代、
経験したバスの中での出来事がある。
それは、突然の雨でずぶ濡れになって、
満員電車のバスに乗ったとき。
ものすごく恥ずかしくなって、
いてもたってもいられなくなった経験がある。
しかし、冷静に考えてみると、
僕が思うほど、周りの乗客は
僕のことを気にしていない。
つまり、「みんな自分をはかっているんだ」
という気持ちがある。
でも、実際、みんなは自分を見ていない。
みんなが見ていると勘違いする。
だから「はかる」という行為は、
相当な頻度で間違いを起こす。
つまり、これは誤解の連続なんだ。
しかし、これはやめられないので、
わかっていても、
はかられるという恐怖に緊張してしまう。
資本主義の価値観にとらわれたメジャー
今はコロナ対策のために
みんなマスクをしているが
僕はマスクをするのを忘れて、
外に出てしまうことが多い。
そのとき、まず感じるのは、
マスクをしている人を見て、
自分がマスクをしていないのに気づき、
恥ずかしいと思うことだ。
これはもはや、
コロナ対策のためのマスクではなく、
「自分が恥ずかしい」という
衝動的な気持ちに対する対策に
なってしまっていると思う。
これを「キャピタリズムメジャー」と呼ぼう。
この資本主義社会の中で生まれたはかり、
または、アメリカ主導で形づけられ、
育ってきたはかりなのだ。
世界にメジャーは一つではない
しかし、絶望することはない。
人ははかりからは逃れられないが
まったく違うはかりも存在する。
同胞とは、その志をお互い持っていれば、
そのはかりは少なくすむ。
仏教徒という同胞も、
はかりはあるにはあるのだが、
あまり使うことに意味を見出せない時間が増えてくる。
つまり、どこか奥の方に
たくさんたまったはかりをストックしておき、
使うのを忘れることも、どんどん増えてくる。
前にスリランカに行ったとき、
僕を通してスマナサーラ長老に
「自分の父親のお葬式をしてほしい」とお願いした人がいた。
僕はそのとき、言葉はまったくわからなかったが、
ジェスチャーで何となくそう理解して、
スマナサーラ長老に伝えたのだ。
今年、スリランカに行ったとき、
その人は長老のお寺で働いていた。
そして僕に笑顔であいさつしに来てくれた。
どうしてそうなったんだろうかという
はかりを、僕は使おうとしたが、
彼は仏教徒であることは間違いないし、
みんなも彼の存在を認めているので、
それ以上の詮索は必要ないし、意味もない。
スリランカの子供たちが純粋無垢で
目がキラキラしているのは、
はかりを持っていても、ほとんど使わないからだと思う。
使っても、相手が使ってないのだから、意味がない。
明日のスリランカオンラインツアーでは、
この「ブッディズムメジャー」を
ぜひみんなで感じてほしい。
参加申し込みは、明日7月4日午前11時まで