Blog ブログ

2017.07.18

webサンガジャパン

ティク・ナット・ハンの軌跡 その4「シスター・チャンコンとの出会い~最初の渡米と目覚めの体験」

シスター・チャンコンとの出会い

1986年初期のプラムヴィレッジにて、子どもたちにデザートをふるまうフーン(シスター・チャン・コン)。この2年後に出家する。

 

フォン・ボイの生活以外でも彼は、仏教辞典の編纂にいそしみ、行動する仏教について各種の文章を発表し、精力的に各地の寺院へ講演に駆け回った。こうした旅の途上で、当時サイゴン大学の生物学の女学生だったカオ・ナック・フーン* 8に出会う。

タイのもっとも身近にいてこんにちに至るまで支え続けることになる、のちのシスター・チャンコンである。彼女は裕福な家庭に生まれ、多くの兄弟姉妹とともにサイゴンのフランス系の私立中学校に通った。

しかし恵まれた境遇にありながら、小遣い銭をストリートチルドレンの食費のために使い、家庭教師で稼いだ日当をそっくり学校に行けない子どもたちの学資に回していた。仏教徒として育ったものの、伝統的な寺院の僧たちは読経と布施集めに熱心なばかりで少しも現実の苦しみにかかわろうとしないと、繰り返し彼女は書いている* 9。

大学に入学してからスラムの救済活動にのめり込んでいった彼女は、戦時下での貧民や犠牲者たちの救済活動のリーダーとして不眠不休で働くようになった。

子どもたちからは「トゥ姉さん」と呼ばれ慕われた。仏教に深く帰依していたが、彼女が真に求めたのは、そうした貧しい人びとを救いうる力をもった教えだった。

1959年、著名な仏教僧マン・ザック師から「この本の中にあなたの求めている答えがある」と示されたのが、ティク・ナット・ハンの何冊かの著書だった。実践仏教について書かれたそれらに深く感銘を受けた彼女は、タイの講演会に出かけ直接話しかける。その後多くの共感に満ちた手紙を交わし、彼らはお互いの活動を知るようになった。

 

*8 以下、出家するまでの彼女の名称をフーンと表記。英語読みはPhuong フォンで、そう書かれる場合もあるが、ここではべトナム語そのままの発音を採用した。
*9 “Learning True Love”(Sister Chang Khong : Parallax Press 1993,2007)

 

若い仲間たちとの活動と弾圧の激化

スラム救済活動をともにしたフーンと友人たちは、山中の僧院フォン・ボイを訪ね、アン・クワン寺(印光寺)のタイの講座にもよく参加するようになり、タイと仲間の僧・尼僧たちの活動を支援し始める。1961年前後には、タイのアン・クワン寺での3か月の講義のコースには、数百人もの聴衆が集まるようになっていた。

この間タイのもとで学んでいた若者たちが、やがて南ベトナムにおける仏教刷新運動の中核をなす『十三本の杉』となる。1930年代から続いていた仏教改革の継続への思いを、タイはこれらの若者たちに託していた。13人は、ザック・ゴ寺で夜間の学校を開き、労働者、兵士、若者たちなど貧しい人びとを招いて、語学や各教科を分担して教えた。

しかしタイの講演活動があまりに多くの大衆を引きつけるにつれ、仏教の旧勢力から妨害を受けるようになり、しまいには講師の名簿から彼の名前が削除されてしまう。また、フォン・ボイ僧院を拠点とする活動も政府から危険視され、1960年のテト(ベトナムの旧正月)には仲間のグエン・フンが逮捕され、フエへと強制送還された。

それに伴いほかの仲間や協力者たちも四散する。タイはサイゴンの竹林寺に避難し、『十三本の杉』を中心に、のちの社会福祉青年学校の母体となる組織づくりに取りかかっていた。

政府が急進的な活動をする者たちを捕捉する口実にしたのは、隠密裏に南ベトナムの共産化を計るベトコン(体制側による南ベトナム解放民族戦線の蔑称)の疑いであった。彼らは拘束されたあと、多くの場合各地の「戦略村*10」に強制移住させられる。

タイの仲間たちを襲ったのもこうした運命だった。

この強圧的な政策を履行したのが、1954年のジュネーブ協定によってベトナムが南北に分断された際に成立したゴ・ディン・ジエム政権である。ジエム政権はベトナム共和国(南ベトナム)と称しながら、アメリカ合衆国によってインドシナ半島の反共の防波堤として利用された傀儡であった。

1960年までに80万人が投獄され、そのうち9万人が処刑され、19万人が拷問されたという。こうした中で、さまざまな地下勢力による抵抗が起こり、1960年末に南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成された。

彼らは南ベトナム政府軍とサイゴン政府に対するゲリラ活動・テロ活動を活発化させて宣戦布告し、政府軍との内戦状態に突入した。ここに学生や仏教徒たちも多く含まれていたため、リベラルなタイたちの活動も、ひとからげにテロリストと同一視されたのである。

タイ自身も実際に、共産主義のシステムとマルクス主義に惹かれ、仏教僧としての立場を捨てようとしたことがあると告白している*11。

しかし暴力的な手段はなんの実も結ばないと悟り、思いとどまった。しかしマルクス主義に対しては、仏教をさらに深く探究し、哲学や宗教を広く学ぶきっかけをくれたと評価している。

そして大きな転機がやってくる。

 

*10 一般農民とベトコンとを区別するという名目で、人工的な村に閉じこめ管理するという戦時下の作戦。1961年から2年間で、3235村が用意され433万人が強制的に入村させられたとされる。
*11 『微笑みを生きる』(春秋社 1995)まえがき

 

最初の渡米と目覚めの体験

1961年末、ティク・ナット・ハンは、かねてから打診されていたアメリカのプリンストン大学とコロンビア大学での比較宗教学の特別研究員の招聘を受ける決断をし、ベトナムをあとにする。それは戦争の当事者であるアメリカの人びとにベトナムの現実を知らしめ、即時停戦を訴える格好の機会だった。

タイ自身はいっぽうで、この時期を「内省の始まり」としている。このころの日記『禅への道』(*前出)には、新鮮な学びや出会いだけでなく、ベトナムを離れて祖国の窮状を耳にする辛さや、戦争当事者であるアメリカでの苦労、迷いと苦悩などが赤裸々に綴られている。

彼はニュージャージーの森で思索にふけり、野生に囲まれた第2の故郷フォン・ボイに勝るものはないと述懐している。思いをさ迷わせながら、内省により本当の故郷はつねに自分の中にあるという認識が彼の中で閃いた。有名な偈のフレーズ「ここに着いた、本来の故郷に。今ここという家に」が、まさに醸成されつつあったのだ。

苦悩と内省の頂点で注目すべき見性を得たことが、本書の中では詳細に記されている。プリンストンに続いてコロンビア大学に招かれた彼は、ニューヨークでスティーブという学生とルームメイトになり、親交を結ぶ。

秋も深まったある夜、大学の図書館でタイは書架から1892年発刊の古い書物を見つけ、手に取ったときに深遠な思いにとらわれる。それまでに借り出されたのはたったの2回、タイが3人目だった。先立つ2人の不在と自身の不在を同時に思い、「自分が若くも年寄りでもなく、存在するものでもしないものでもないと感じたのです」

さまざまな感情を取り去ったあとに残る何らかの存在、それを知った彼に、ひとつの洞察が訪れる。「その瞬間、他者の中に生きる1個の存在としての私という感覚が消えうせていました(……)その瞬間に、私は『帰りついた』という深い感情に遭遇したのです」

数日間ルームメイトのスティーブは留守で、タイはその後の嵐のような変容の時期を必死で乗り越える。友が帰ってからも続いた激烈な内的な嵐は、見性と日常とを統合するための必然の苦闘だった。「真実を人から借りてくることはできません。真実は直接みずからの体験によってのみ得られるものなのです」(すべて前掲書より)

彼を最終的にその嵐の中から生還させたのは、ブー・チゥ(武守)の3行の詩だった。

 

荒涼とした砂漠を歩いていると
ふいに熊が私を襲う
じっと熊の目を見つめる

 

これ以降タイは迷いから抜け、すべてを深く観、深く聴くようになる。そして、記述にも空、不生不死、三宝印、インタービーイング(相即・相依)など、ブッダの教えと現実の苦悩との関連が顕著になるのである。

彼の行動する仏教に、魂が入った瞬間ともいえるかもしれない。その違いは、ベトナム帰国後の活動にはっきりとあらわれることになる。

 

執筆:島田啓介(ゆとり家

(つづく)その5

【バックナンバー】その1 その2 その3

 

本記事は、『サンガジャパン19号』からの引用です。

サンガジャパンvol.19「ティク・ナット・ハンとマインドフルネス」