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2017.08.07

webサンガジャパン

イギリス アマラワティ僧院副僧院長「アチャン・ニャーナラトー師インタビュー」その4

西洋社会での僧・僧院の意味

――タイの人たちは、功徳を積むために喜んで僧院や比丘にお布施をします。でもお布施の文化がない西洋で僧院を持続していくのは、大変なことではありませんか。

たしかにアマラワティ僧院でも、アジア系の皆さんによる布施は、設立当初から今日に至るまで重要な役割をしてきました。そして、そのことが見本となって、西洋の人たちも布施するようになってきました。

でも西洋人の場合、自分がお寺で使用した分の費用は出そうといった、「支払い」のような発想だけにしばられているような考えにとどまることもあります。

おっしゃるように、東南アジアの人たちには、お布施すること自体が喜びです。お布施をしたい、自分や家族のために徳を積みたい、お布施をするべきだ、というのが自然にある。そこは差があると思います。彼らのそのような様子は、僕ももっと見習いたいです。

また、たとえば、アマラワティは五十人、六十人もの人間が暮らす僧院なので、一日の必要経費も実際たいへんな金額になります。西洋の人たちからにせよ、アジアの人たちからにせよ、それだけの布施が、何の強制もなく、途切れることなく、日々なされていることは、大変なことです。

なんと言ったらいいのでしょう、不思議という言葉さえ思い浮かぶほどです。本当に素晴らしいことだと思います。そして、そのおかげで、僕たち出家者が生活し、修行することができるのですから、心からありがたく思います。

 

――現代の西洋社会にテーラワーダ僧院があることは、どういう意味があるのでしょうか。

そうですね、瞑想センターがあるとか、仏教書があるとかではなくて、出家者の集団であるサンガがあることの意味という点で話します。

サンガを構成する比丘、僧侶という存在は、僕なりの言葉で言うと、輪廻を離れる、あるいはその外にある、ということの象徴みたいなものです。たしかに輪廻を超えるというのは教えとしてはありますが、形あるものとして示せないものです。

形になればそれは、輪廻の中にある「五蘊」(色受想行識)の「色」になりますね。ですから本当は形にはできないものだけど、それを一つのあり方として、象徴的に具現化されたみたいな存在が比丘、お坊さんと見ることもできるんじゃないかと。

そもそも輪廻を超えるあり方とは、究極的な意味で「何の意味も無い」存在・あり方です。この比丘、僧侶という形は、無とか、「いかなる何ものでもない」ことを表していると思います。だから男とか女とか、若いとか老いているとか、東とか西とか、それもない。

通常のありかたでは、そしてとくに、西洋社会というか、日本をふくめた現代社会は、常に意味を追求しています。「これはどんな意味があるのですか」、「なんのためになるのですか」、「瞑想してどうなりますか」と次々に答えを求めます。

「こんな意味があって役に立つのですよ」というとき、私たちは、その立ち位置、都合、考え方等々の条件によって、言い換えれば、「我が」のありかたによって、価値判断をしているといえないでしょうか。そのような相対的なものに限定してしまうのでなく、それに陥る以前のあり方とでもいうのでしょうか。

ですから、ここでいう「何の意味もない」というのは否定ではなく、絶対肯定です。そして、比丘、あるいは僧侶という形は、もう一度私たちにそのことを思い出させるという存在というようにもいえるかもしれません。

ですから、この現代社会にあって、無とか、輪廻を超えたあり方を象徴的に表わし、そのことを想起させてくれる比丘、僧侶が存在する、そのこと自体が、すごく大事だと思います。西洋社会にテーラワーダの僧院があることの意味という質問でしたが、この点を強く感じます。

 

――比丘は輪廻の外を思い出させるアイコンのような存在だと。

ある西洋の僧侶が「比丘というのは、(ユング心理学の)『アーキタイプ』に通じるようなものとして見ることができるのではないか」というようなことを言っていました。

これは勝手な術語の使い方かもしれないので申し訳ないのですが、とにかく、私たちの集団的無意識、つまり、個人を超えた無意識の中には、僧のような存在に本来的につながる部分があるのではないか、というようなことを言いたかったのではと思います。

僕流に説明を加えれば、人間は、生きていく上で、うれしいこと、苦しいことや悲しいこと、いろんなことを経験し、翻弄されたりもするのですが、実は、同時に、それを超えた自由とか本当の安らぎということを知っていて、あるいはそれに対する潜在的な感覚みたいなものがあって、僧侶という形は、この感覚のようなものを呼び起こす、とでもいうのでしょうか。

実際、僕たち比丘の姿は西洋の人から見れば、見たこともない奇妙な恰好だと思いますが、興味深い反応に出会うこともあります。

例えばこんなことがありました。スペインのとある街の小さな路地を友達と歩いていたところ、数十メートル先を通りかかった二十代か三十代ぐらいの男性が、僕を見て、大きな声で叫んでいました。

たいへん変わった姿の僕を見て、何かいやなことでも怒鳴っているのかな、と気になったのですが、友人はスペイン語を通訳してくれて、「オレも、あなたみたいになりたい!」という内容であることを知ったのはうれしい驚きでした。

また、これもスペインでの出来事ですが、同行していた信者の方に街角のカフェで朝食の供養を受けていると、店の人に「今日は運がいい、あなたみたいな人が来てくれて」と言われたこともあります。

彼らは、比丘である僕の姿を見て何であるかは正確にはわからないとはいっても、キリスト教に修行僧の歴史があるから、宗教者だというようなことはわかったのでしょう。普通の存在ではない、何かを超えた形だということが直感と同時に常識的なレベルでもわかって、それに対してよかったなと思えた。

それはやっぱり、ほんとうの安らぎ、幸せといったものにつながる部分が、洋の東西を越えて、私たちの存在、意識の中にある。僧という形がそれを具現している、そんなふうにも思えるのです。

 

――現代人にとって、宗教的な存在が持つ、肯定的で積極的な意味というのがあるのですね。

はい、そう思います。僕が西洋の人たちに対してすごく感じることで、それは今の日本の特に若い人もひょっとしてそうなんじゃないかと思うことなんですが、英語でいうと「insecure」、安全でない、拠り所がないという内面的経験です

「secure」は安全な、確実な、ということで、セキュリティーという言葉もここから派生します。insecure はその逆、それがないということで、不安で、また自信がない、という経験につながります。

その結果、個々を守ってくれる人権、政治、制度など、自分の外側に対する思いがすごく強くなっているのではないか、insecureな思いをふさごうとして、secureなものを求めて、外に向かい、そこを強固にしようとしているのではないか、そういう風にも思えるのです。

自由・平等・民主主義といった価値観のもとに、社会の制度を整えていくというのは、中世以降の西洋の歩みであり、日本やアジアもそれをフォローしようとしてきたのだと思います。西洋社会のこうした歩みはとても重要なことであり、人々の努力に深い敬意をおぼえるのですが、同時に僕が感じるのは、個々の人たちにともすれば存在するinsecureな内面のことです。

そして、ひたすらに外に向かって、完全なもの、安全なもの、立派なもの、その他の答えを求めている。ただ、内面に目を向けると、すごく不安で、外的なもので充たされようとする分、充実とは反対の方向にさらに陥っているようにも見えます。

西洋的とか、アジア的というのは単純すぎるまとめ方で申し訳ないのですが、アジア的なものは、たしかに外は混沌としていたり、「問題」が山積していたりするかもしれませんが、実は、心、内面はゆったりと落ち着いているので、自信というか、それで収まっている、そんな風にも感じます。

日本も本来そうだったと思うのですが、最近はどうなのでしょうか。

 

(つづく)その5

【バックナンバー】その1 その2 その3

取材・構成:森竹ひろ子(コマメ)&サンガ編集部

2017年8月10日アチャン・ニャーナラトー師法話会の詳細情報・ご予約はコチラから。

 

本記事は、『サンガジャパン20号 特集「これからの仏教」』の転載です。