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2017.08.09

webサンガジャパン

イギリス アマラワティ僧院副僧院長「アチャン・ニャーナラトー師インタビュー」その5

アチャン・チャーの教えと修行

――日本人にとってタイは、旅行やビジネスでは身近な存在ですが、タイ仏教がどんなものかは、あまり知られていません。タイ仏教の特色をお聞かせください。

タイ仏教の特色とまとめて語るには、僕の体験はあまりに限られていますので、再び、アチャン・チャーやその僧院についてお話しするみたいなことになりますが……。問いの答えにならなくて申し訳ありません。

瞑想にしてもミャンマーだとマハーシ・セヤドーはこうしますとか、パオ・セヤドーはこうしますとか、システムがあって、入口がはっきりしている印象があります。タイでも、同じように瞑想法などのメソッドが特徴的ではっきりしているところはたくさんありますが、それ以前のところに本質があったりするとでもいうのでしょうか、特にアチャン・チャーの寺のあり方は説明がいるかもしれません。

アチャン・チャーやアチャン・スメードーに関して、どういう瞑想指導をされていたかをよく聞かれます。アチャン・マンの流れをくむ寺がそうであるように「ブッ・ドー」という言葉に合わせて呼吸を観る瞑想が説かれたりもします。

といっても、アーナーパーナ・サティ瞑想(出入息観)を教典に沿って段階的に修するシステムということではありませんし、あるいはサティパッターナ(四念処)はもちろん説かれるけれど、それが体系的に整理されて指導されるというスタイルでもありません。個々の瞑想法のそれ以前のところ、メソッドの奥のところにある本質が常に問われるというか、そこに返るというか、だから、こういう方法です、という説明ではむずかしいと思っています。

 

アチャン・チャーの教えの核心

――瞑想以前にある本質とは、何でしょうか。

はい、ここは大事なところだと思います。メソッド以前というか、その意味に立ち返り、そこを失わないということです。僕流の個人的な見方ということで説明します。

お釈迦様の最も根本的な教えに四聖諦があります。その四聖諦をさらにまとめて二つにして説かれたりもします。つまり、「苦しみと、苦しみの終わり」、あるいは「苦しみと、苦しみのない状態」で、これが本質になります。

アチャン・チャーの教えを読んでいても、とりわけ、どういう方法でというようなことは多く説かれていないかもしれません。でも、本を読むと心が楽になるのがわかります。たしかにためになる教えがそこにはあります。

彼の教えが、苦しみと苦しみのない状態という、いちばん根本の場所に常に立っているからだと思います。そして、修行を進めるにともない、その味わいが深くなっていきます。

お寺で修行していて、いろいろな経験をしながら、時には結構辛い思いもしたりしながら、いったい何をしているのだろう、ということなのですが、結局、最初も最後も、この本質の「苦しみと、苦しみのない状態」、ここを極める、あるいはここと一緒に在る、ということなのだと思います。

それが、瞑想という形を通すこともあるし、また、そうでないときも同じことが問われます。ある時には山にこもって修行する、ある時には寺で説法をする、ある時はお寺の建物を建てるために朝も昼も晩も仕事をする、あるいは自分の修行生活に悶々として苦しむこともあります。

いろんなことがあるけど、この根本だけは踏み外さない。逆にここがわかれば、あとはどういう現れ方もありうるとなります。

だからアチャン・チャーの弟子を見れば、いろんな説明の仕方をしているように見えると思います。「きちんと瞑想しないとだめですよ」と言う人もいれば、「サンガで仕事するのが大事ですよ」と言う人もいる。

特定の言い方にとどまらないのですが、この点は、実際、表面的なことや言葉のうわ面にだまされて、誤解されることも少なくありません。常に、本質を見失わないということが問われます。

日々の作務が多くなったりすると、「これが出家者の生活ですか、静かに座るために出家したのに、こんな仕事ばかりじゃないですか」と言う人が必ず出ます。そこで「根本はどこにあるのですか」という話になるのです。

もちろん瞑想は大事です。でも、瞑想や修行はこういう形でないといけないと執着になったとたん苦しみになります。

本当の自由とは何ですか。「苦しみと、苦しみのないこと」、そこの根本は外さない。逆にそこを押さえれば一番の根本のところが楽になるから、どこにいも楽になります。どこにいても、何をしても修行ができるというのはそういう意味です。

修行のあり方として、「どこにいても呼吸は観ることができます」、という言い方がされることもあります。一番根本の問題は常にあるから、そこを外さないということだと思います。

 

15年程前にアマラワティ僧院で、アチャン・チャーの流れをくむ、世界中の僧院の僧院長が集まる会議がありました。その時、健康だったころのアチャン・チャーに実際に出会い、ともに生活し、指導を受けた先輩比丘たちに「あなたにとってアチャン・チャーについて一番心に残っていることは何ですか」といったインタビューが行われました。

それを聞いて非常に興味深かったのは、全員の答えが違っていて、それぞれの答えが一人一人のダンマの理解や最も深く関心のある領域の照らし出された形になっていたことです。

例えば、慈悲ということをすごく大事にする人であれば、アチャン・チャーの慈悲の側面を語り、サマディーの強い僧だと「アチャン・チャーはサマディーを教えていました」。サンガのあり方・道を説く人は「サンガの大切さを伝え、導いてもらいました」と答えました。

あるいは、サティ(Sati :気づき)について、あるいは、体全体からの存在感についてというぐあいに、さまざまな印象や思い出が語られましたが、それぞれが、アチャン・チャーを語ることを通して、さながら、自身のダンマの理解、一番大切にしている事柄を語っているようでした。

見る側がいろんなとらえ方をして、アチャン・チャーはこうだとか、私はこう思うとか言っています。しかし、今にして振り返ると、いろいろな見え方の根底にあって、僕たちが譲り受け、学んできているのは、「苦しみと、苦しみの終わり」あるいは「苦しみと、苦しみのない状態」としてまとめられる四聖諦だと思うのです。

結局、僕たちが修行をしているのはここのところだと思うのです。そこを間違えると本来の意味を見失った瞑想、メソッドにとらわれてしまった瞑想、あたかも勝ち負けに拘泥しているかのような修行になってしまいます。

「何々を手に入れるために」とか「何々になるために」とただ盲目的に追いかけると、苦しみ、混乱に陥ってしまいます。パーリ語で言うタンハー(tanhā :渇愛)にかられた「修行」です。

別の例として、比丘と戒律の関係をあげることもできます。戒律をきちんと守るというのは、比丘にとってはとても大事なことだけれど、戒律や形への執着になってしまうと、そこで本質からそれる。自由、幸福、解脱のための比丘としての生活であり、戒律なのに、その本質を見失ってしまって、かえって捉われ不必要に苦しむという、難しいですが、やはり重要な問題がそこにはあります。

アチャン・チャーは、決まった方法などは特には見られないかもしれませんが、本質である一番深いところに常に立脚して、かつ、、状況に応じて賢く方便を操りながら、人々を導いていたのだと思います。

 

(つづく)

【バックナンバー】その1 その2 その3 その4

取材・構成:森竹ひろ子(コマメ)&サンガ編集部

 

2017年8月10日アチャン・ニャーナラトー師法話会の詳細情報・ご予約はコチラから。

 

本記事は、『サンガジャパン20号 特集「これからの仏教」』の転載です。