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イギリス アマラワティ僧院副僧院長「アチャン・ニャーナラトー師インタビュー」その6
――ニャーナラトー師が出家された時、アチャン・チャーはご存命でしたが、直接教えに触れたり、指導を受けられたのでしょうか。
彼の生涯の最後の10年ほどはいわゆる植物状態で、言葉を発することもなく、ずっと寝たきりのままでした。僕がお寺に来た時には、もうその状態になって5年ぐらいでしたでしょうか。だから、実際に、通常の意味で生きざまに触れ、直接その口から教えを授かる機会には間に合いませんでした。
植物状態にあった約10年間、容体がむずかしくない時は、僧院内にとどまりました。僧侶たちが昼夜二交代制のシフトでチームを組んで、体を拭いたり、床ずれをしないように姿勢を変えたり、マッサージをしたり、さまざまなお世話をしていました。多くの僧侶が希望して行っていて、僕にも加わる機会がありました。文字通り体にコンタクト、触ることのできる機会となりました。
アチャン・チャーの教えには、はじめは英訳された本で、やがてタイ語がわかるようになると実際に録音されたもので学んでいましたが、サンガの中で生活し時間が経つにつれてその味わいが変わっていったと思います。特にイギリスに来てアチャン・スメードーを通して、アチャン・チャーに対する理解が深まりました。お話ししたような、本質といったものが僕なりの言葉で言えるようになったと思います。
アチャン・チャーの教えは今も生きています。今も人々の心にゆっくり、そしてしっかりと入っていくようです。まず、大切なものがここにある、とその教えに目覚め、やがて、僧院での生活、修行を重ねるうち、意味するところの深さを味わうようになり、何が本当のところ問題なのかという本質を学んでいく、みたいなことが現在も続いていると思います。
修行生活の深まりと五蓋
――修行生活を送るなかで理解が深まり、変化も起きてくるのですね。
僧院での生活は、肉体的に苦行を強いられるわけでもありませんし、たいへんきびしいスケジュールをこなすということでもありません。毎日コツコツ修行をしていくのですが、それは僧院の外の人がよく想像するような、静かで平和な生活というのでは必ずしもなく、さまざまな困難に出会うことはむしろごく当たり前なことです。
僕の場合は、「自分は時間の無駄遣いをしていて、社会に対する責任から逃避しているのではないか」、「なぜ医者として社会に貢献しないのか」といったことが、出家して2,3年ぐらいの間は、非常にしんどい疑問になりました。これは瞑想など、修行をしていると経験する5つの障害「五蓋」のなかの1つ「疑」、英語で言う「doubt」、と言うことができます。
心というのは自分の心の一番の弱点を衝いてきます。自分自身のことだからどこを衝けば一番修行の妨害になるのか知っているのです。人によって、時によって、何がどういう形でさまざまなチャレンジ、つまり、どんな「五蓋」が出てくるかわかりませんが、それに対して忍耐強く向き合うのが僧院で生きていく上での重要なプロセスであり、修行です。
今、アマラワティ僧院の副僧院長という立場ですが、新しくサンガに入ってきた人たちのサポートを担当しています。やりがいのある、とても大切な責務だと思っています。修行をスタートして、皆知識が豊富だし、意見、考えもたくさん持っています。ダンマの本もよく読んでいるし、修行に打ち込もうという意気にも満ちている。
でも寺に住む、サンガに生きるということは、時間をかけないと本当にはわからないことがあります。1ヶ月や2ヶ月ではなく、1年、2年それ以上というレベルの長さの時間です。そしてその時間に付き合うのが僕の仕事だと思っています。
本を読めば、五蓋の説明として、眠気だとか、疑いだとか、そわそわした心だとか、あるいは性欲だとか、怒りだとかが修行の障害をするものということは書いてあります。だけど、実際にわが身を通して経験するということはまったく別のことです。生きていく中で、それがもう思いっきり出るんですね。人によっては、とんでもない性欲が出てくる。あるいは、とても困難な眠気というかたちで出てくる。
たとえば、この眠気の例ですと――アマラワティ僧院では4時に鐘がなって、5時に本堂に行って座る。最初来た時は皆しっかり出来ます。「出家できた。ああ、善い道に入ったなあ」とやる気満々です。それが何ヶ月とか、1年もするうちに、何割かの割合ですが、出来ない人がでてきます。別に怠けようとはけっして思っていないのですが、朝になるとどうしても起きられない。出られないから罪悪感がつのる。
自分は多くの人々のお布施で生きているわけですよね。しかも出家する時に、学歴とか、仕事とか、家族とか、いろんなものを置いて、全部を懸けてきている。それなのに眠気とか疑いの念に苛まれて、何をやっているんだと、自分のあり方そのものがすごく辛くなってきます。
ここのところを通り越していくのが、僕らの修行というか、道を進んでいくということなのです。たいへんきびしいところなのですが、忍耐という言葉の意味を、身をもって学んでいくわけです。
若い僧たちは、寺に入った当初は元気なことを言います。僕らの批判もしますよ。それが、時間が経つうちに彼らもわかってきます。こっちを見る目も変わってきます。理屈での判断ではなく、同じような困難をこの心と体を通して味わい、学んできたという者同士としての理解です。同じ戒律を受けて、1年、2年、3年と修行生活を一緒にやっていきます。何が修行生活であるかということを肌で、魂で経験したもの同士ということですね。
――後輩の僧侶の瞑想修行などをサポートするなかで、時に強調して伝えられていることはありますか。
瞑想をしていて、サマーディであれ、悟りであれ、私の欲しいものがないといけないといった態度であれば、それはタンハー、渇愛ですよね。ある時はたまたま瞑想がうまくいくと、「よし、修行が進んでいるな」、うまくいかないと「わたしはダメだ」とか、「ここの僧院はだめだ」となる。
でも、それは、私たちの求めるべき、本当の自由のあり方でしょうか。「これがあったら幸せだけど、こうなるのはダメだ」と、善悪、良し悪し、当否をケンカさせたまま道を求めているとすれば、浮き沈みに翻弄されるばかりの世の中と何か違いがあるのですか、ということです。
瞑想で平和な安らぎの境地を享受したいというはずだったのに、これはもう平和ではなくて心に対してケンカしにきているわけです。「心はこうあるべきだ」、「こういう心の状態は間違っている」と心に命令しているわけです。
だから瞑想を学ぶ時、あるいは、修行生活をふり返る時、そのメソッドだけでなく、心のあり方の正しい理解ということを強調します。「いったい何のために瞑想をするのですか、何が大事ですか」と。
「サンゴップ、マイ・サンゴップ、ラーカー・タオカン」という、アチャン・チャーが言ったとされる言葉があります。
タイ語で「サンゴップ」は平和とか静かなこと、また心が落ち着いていることを意味します。「マイ」は否定を意味し、「マイ・サンゴップ」は静かでない、つまり心が平和でない、さわがしいということです。「ラーカー・タオカン」は同じ(タオカン)値段(ラーカー)だ、同じ値打ちだという意味です。
仏教の修行や精神世界の道に向かう人というのは、幸せになりたい、心を自由にしたい、苦しみから解放されたいと、今とは違う地平を探しているはずなんですね。でも宗教というからには、輪廻から外に出る、離れるとか、表現はいろいろあると思いますが、輪廻を超えるということが一大問題となります。
輪廻とは何かといえば、生まれては死に、生まれては死にの世界であり、また、日々のあり方という視点でいうと、すごく大ざっぱなくくり方ですが、勝ち負け、対立の世界です。
だから瞑想に勝ち負けを持ち込んでいたら、輪廻から出るはずの、あるいは輪廻の外にあるはずの道なのに、実は、「今日はここまで進んだ」、「私はステップ3だ」、「私はレベル4」、「私は2まで戻った」、「今日は5時間も瞑想できた」、「1時間しかできなかった」と、修行や瞑想という名で、しっかりと勝った負けたをやってしまう。そういう面のあることも否定はしないけど、へたをすると全く輪廻の中で終わっているだけかもしれません。でも本来、瞑想はそれとは全然違う地平のことをやっているはずなのです。
現代社会では、日本もそうだし西洋もそうですが、社会の発展とかそれに類したことを日々言います。世の中をよくしよう、民主主義はこうだ、人権はこうだ、と。もちろん、そういうこともすごく大事です。これを多くしなくてはいけない、これはどうしたら立派にできるのか、というのは世の中の発展だし、世の中の改善なわけですよね。
でも少し厳しい言い方をすれば、それも輪廻の中でなんとかしよう、ということでしかないのかもしれないと……Aをしたら、次はAプラスで、それでダメならBがあって、ずっと先のXにもさらにXXがあって、みたいなあり方だと言えるかもしれません。
僕らがやっていること、輪廻の外、輪廻を離れるあり方・地平ということを学ぶというのはそれとは違います。「サンゴップ(平和な心)」、「マイ・サンゴップ(平和でない心)」、2つは違ったあり方で、一方は好ましいもので、他方はそうでない。
しかし、それが「ラーカー・タオカン(同じ値段)」と言うと、「えっ、同じ値段?」、「それってどういうこと?そんなことありうるの?正しいの?」と心は反応します。そして、平和な心とそうでない状態とが同じ価値であるというあり方を探るうち、僕らは意識の中でタンハー、渇愛が働いているのに気づきます。
平和な心とそうでない心を対立させ、一方を希求し他方を厭うというタンハーです。「ああ、そうか」と気づけば、それがポッと落ちる。重く抱えていた物が落ちるような感じです。これは、正しい理解、見方に目覚め、気づくことで得られる自由であり、軽さです。
瞑想という名のもとに、いろんなものを抱えてしまう傾向が私たちにはあります。寺で出家した人たちも、「がんばるぞ」と一生懸命になりますが、よく気をつけないと、「我が」のあり方そのままに、タンハーによってしっかり心に戦争を持ち込んでいる可能性があります。
(つづく)
取材・構成:森竹ひろ子(コマメ)&サンガ編集部
本記事は、『サンガジャパン20号 特集「これからの仏教」』の転載です。