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イギリス アマラワティ僧院副僧院長「アチャン・ニャーナラトー師インタビュー」その7
total relinquishment(全部、捨てる)
――自由や、幸せ、楽を求めながら心の中では戦争をしている。とても皮肉な現実ですね。
数年前、アチャン・マンの弟子の一人である高僧の僧院を、アチャン・スメードーに伴って訪れる機会がありました。この高僧はずっと前に逝去していますが、その教えにはやはり仏教の本質がとても端的に説かれていて、この訪問であらためてそのことに触れ、感じるものがありました。
そのあと、車のなかでアチャン・スメードーが突然に僕の方を見て言いました。「ニャーナラトー、いいですか、ブッダにしてもアチャン・チャーにしても、結局のところ私たちに説いているのは、《total relinquishment》ということなんだ」。
英語で「relinquish」は捨てる、放棄する、放す。「total」は全部です。「partial」、部分ではないんですね。全部やめる。「どうしたら、もう少し減るだろう」、「どうしたら、ましになるだろう」というあり方とは全く違います。ちょっとやめるとか、だんだん止めるとかのレベルではないですね。それでは輪廻の世界の中でのことに過ぎません。
お寺に来て、真剣に修行をしたり、あるいは人によっては難しい勉強をしたりするのは、やっぱり道を極めたいから、瞑想を進めたいから、ひょっとしたら偉くなりたいから……。でも、それはどれも「何かを得よう」ということですね。
たとえば、修行のためにできるだけ簡素にしようと持ち物は減らしていくかもしれないけれど、心の方は一生懸命に増やしている。僕たち僧侶も、出家したはじめのころは、そのように、「何かを得よう」「何者かになろう」と一生懸命です。
でも「total relinquishment」は逆のことというか、まったく別のあり方をいっています。ここは、僧侶として歩んでいく中でぶつかることの多い壁です。そしてこの「total relinquishment」で説かれている意味がわかってくると修行も変わります。とても大事なポイントだと思います。
――修行における、ターニングポイントのようなものでしょうか。
はい、そう言ってもいいと思います。それまでというのは、結局、1の次は2、2の次は3、とやっていたのですね。
例えば今、手に持っているこの本を軽くしようとしたら、「紙質を変えたらどうだろうか」、「角が四角いけれど削って丸くしてみたら?」、「いっそ、ページを少なくしようか」などとやっていて、「それにしてもまだ重たいなあ」と言っているわけです。
でも、本自体を手から放して置いてしまうとどうでしょう。50グラムを20グラムにして、さらに20グラムを10グラムにするという発想ではなくて、ゼログラムですらなくて、重さそのものがない。それが「total relinquishment」。
今、煩悩が50トンあるから30トンにしたいとか20トンにしたいとかいうアプローチでやっていると、僕たち僧侶としてのあり方が本当に苦しくなりかねません。
――なぜ、だんだんと煩悩を減らしていくというアプローチでやっていくと、苦しくなるのでしょうか。
僕たち僧侶の場合、毎日昼夜、自分の心に触れ、見つめる機会の中にある生活を送っているわけですが、そうすると、自身の持つ弱点、問題をまざまざと見せられることになります。「えっこんなに問題があったら、いつまでたってもよくならない」と、煩悩が次から次へと、限りなく経験され、それを清浄なものにすることが大変な困難に思われます。
でも僧侶というのは、外からは優しく清らかな存在であるようなイメージを持たれていますし、自分もそうありたいし、そうあるべきだと思っています。「こんな煩悩まみれで、ダメじゃないか」と思うと、それこそどうしようもないほどの苦しみになりますね。
悩むどころではない、落ち込みきってしまいかねません。「自分はこの道にふさわしくない。これだったら、修行なんかやめたら方がいい」と結論してしまったり。
でも、修行っていうのは、人間の性格を変えて、全く清らかな完全な人格をつくるとか、肉体を不老不死にするとかいうことではないと思うのです。そこは、仏教の道を正しく理解する上で大切な点だと思います。
たとえば、とってもおいしいそうな食事を見たとき、心は動きますね、普通。心が全く動かないことをゴールだとすると、「えっ、まだ動いている」みたいなことになるし、あるいは「この間は動かなかったのに、今日はえらく動くなあ」となる。
でも、全部それは、心の状態のことで、五蘊の中の話です。本当の自由、安らぎは、五蘊のなかには一切ない、どんなに美しいこと、どんなに素晴らしいものでも、五蘊である限りは「アニッチャ(Anicca :無常)、ドゥッカ(Dukkha :苦)、アナッタ(Anattā :無我)」ですよ。五蘊である限りは、結局それは答えではないのです。
では、そんなものはどこにあるのか。普通私たちは一生懸命にどうやって五蘊をきれいにするかという作業で、答えを得ようとします。でも「total relinquishment」は全然違います。全然違うけど、全然不可能なことではありません。
いわゆる中道というものには、二つの意味があると思います。一つには、たしかに人間は極端に行きやすいから、あまり緊張しすぎないように、あまりリラックスしすぎないように、適度なところを自覚しましょうという意味もあります。極端に陥らず、そのバランスを上手にとるということです。
でも、もう一つの意味の中道は、「こうでなければいけない」といった思い込み、制限のあり方を「放す」、「置く」ことによっておのずと現れる状態、つまり「total relinquishment」における、そのままにバランスがとれた状態のことです。
限定、制限を「手放し」てなにも引っかかるものを持たなければ、360度まるまるの世界に戻るから、バランスはおのずと取れているわけです。それが中道です。だから(A + B)÷2ではなくて、遮るもの、狭めるもの、分け隔てるものが無ければ、それ自身が中道だという、そういう中道のことです。
瞑想の位置づけ
――本質を見失わなければ、どこにいても、何をしても修行ができる、というようなお話がありました。では、あらためて、瞑想そのものの位置づけをうかがいたいのですが。
瞑想とは僕が思うには、一番純粋に自分の心と向かい合える時間です。非常にぜいたくな時間です。
何が自由なのかとか、何も持たない「total relinquishment」のあり方だとか、あるいは今、現在の心の状態だとかに最もストレートに向かい合える。だから機会としてはベストです。
瞑想という時間はあるにこしたことはないし、大切にしていかねばならない貴重な機会ですが、これを得ないといけない、こうでないといけないというこだわり、執着にしてしまうと、根本的なポイントがずれてしまいます。せっかくの機会なのに「手放す」のではなく、握りしめることを一生懸命やっているのですね。
――アチャン・チャーの教えは、「手放す」が重要なキーワードですね。
そうですね、タイ語の「プロイワン」もしくは「プロイワーン」という言葉ですが、日本語では「手放す」と訳されるようですね。「プロイ」は手放す、「ワーン」は置くという意味で、合わせて、手放す感じが強調されています。
また英語では普通、「let go」と訳されています。この「手放す」や「let go」という表現は、特定の個々のこだわり、執着があって、それをやめるというケースでは理解しやすいと思います。
しかし、「total relinquishment」のあり方の場合において注意したいのは、何かを「する」という形で把握され、「私」が「手放す」というふうに、「我が」の行為の側面が強くなると、ポイントがずれてしまう可能性があるということです。
この場合「プロイワン」「手放す」というのは、することを止めるから自然にモノが落ちるという感じです。行うこと、関わること、在ること、云々を「止める」ということです。
アチャン・チャーが元気だったころ、相談に来た人にこんな対応をしたそうです。相談者が「こういうことで困っています」と訴えると、アチャン・チャーは「そうか、そうか」と聞いた後で、彼の席のそばにあるもの、例えば石などを持ち上げて聞きます。「これは重いですか?」。
相談者は何を言っているのかととまどいながらも、「はい、重いと思います」と答える。すると、アチャン・チャーはその石を下に置いて同じことを尋ねる。相談者は「重くないです」。また持ち上げる。「重いです」。また置く。「重くないです」。
これを何回かやった後、「わかりますか?」と問いかけます。つまり、どこに本当の問題があるのか。いったい、苦しみはどこからくるのか。そのことの自覚へと導かれるのです。先ほどの重さのたとえ話なら、どこに「重さ」があるのか、ということです。
空とか無とかを、「有ること」の否定みたいに考えてしまいがちですが、有と無の対立の中での否定としての無ではないはずです。全部有るけど、無いんです。
まるで禅問答みたいですが、たとえば、この茶わんは手に持っていると重いですが、(テーブルに)置くと重さを感じません。でも、茶わんが無くなるのではなく、今までどおり存在しています。でも、私たちとの関係が変わったというか、あっても無くてもいいようになりましたね。
「重さ」という関わりのなかで、茶碗はしっかりと存在していましたが、茶碗を置いてしまうと、重さということのない、「軽やかさ」「自由さ」あるいは「安らぎ」の中にあって、茶碗は特に問題でなくなります。
同じように、世界はなんにも変わる必要はないというか、輪廻の世界が、あるいは人間が、今までのままであっても、何ら問題はありません。茶碗を否定したりすることではありません。肯定でも、否定でもありません。「total relinquishment」ということです。
この、(茶碗を)「置く」ということで、世界との関係が根本的に、決定的に変わるのではないでしょうか。
(つづく)
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取材・構成:森竹ひろ子(コマメ)&サンガ編集部
本記事は、『サンガジャパン20号 特集「これからの仏教」』の転載です。