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イギリス アマラワティ僧院副僧院長「アチャン・ニャーナラトー師インタビュー」その8
ニャーナラトー師の個人史
「死」の問題に気づいた少年
――出家されるまでの経緯を教えていただきたいのですが。まず、子ども時代のお話からうかがいます。子どものころから、精神的なことに興味をお持ちでしたか。
僕はごく普通の子供だったと思いますが、小学校六年生のころに死ぬということが急に問題になりました。それまでは世の中が丸く収まっていたのに、死がとても現実的なこととして現れるようになり、とてもむずかしい問題となってしまいました。
誰かが亡くなったとか、自分が病気をしたとか何か特別なきっかけになることは一切なかったです。でも気がついたら、そういうことが大問題になり、どうすることもできませんでした。
しかし中学生以降、とにかくこの問題は薄れるというか、表面的な意識から抑圧されたというか、あるいは、なんとなく脇に置かれた感じになりました。それは一つには受験社会の中で、さしあたっては勉強をしなくてはいけないというのもありましたし、もう一つには問題が大きすぎるから、無意識に、心がそこに近づくのを避けたということもあるのかもしれません。
――ご家族は受験に熱心でしたか。
勉強しろと、直接にはそんな強くは言われなかったです。でも、家の周りは田んぼばかりの田舎で、近所の人はみんなお百姓さんのようなところで、うちは父は中学校の教師をしており、その意味では教育への関心ははっきりとありました。
小学校は地域の普通の小学校に通い、中学高校は進学校に通いました。奈良女子大学附属といって奈良公園の端にありますが、毎日、公園の鹿を見ながら通学していました。
高校のときも死に関する問題が頭にチラチラとしていて、片付いていなというか、肝心のところが収まっていないという感覚がずっとありました。でも、高校生二年、三年になって、自然と受験勉強のことが生活と意識の中心を占めるようになっていました。
おかげさまで京都大学の医学部に入学でき、最初は一生懸命に勉強をしていました。
――なぜ、医学部を選ばれたのですか。やはり人の生死に対する問題意識があったからでしょうか。
ええ、やっぱり死との裏返しで、命というのは大事だという意識が強かったからだと思います。
実は、自分が本当は何になりたいかは、高校二年になってもわかりませんでした。人によっては政治家になって世の中を直そうとか、経営者になって経済を動かそうとか考えますが、そういう方面は特には頭になかったですね。
医者になりたいというようなはっきりとしたイメージではなくて、何が一番大事か、根本であるかと考えるなかで、命とか心とかが意識にあったので、その方向にあるものとして医学部になったのだと思います。
大学では真面目に勉強していましたが、四年か五年の秋ですね、未解決にしておいたその問題が、とうとう意識の真ん中に姿を現しました。ある晩突然に、です。
下宿の四畳半で机に向かって、NHKブックスの、木田元という哲学者が書いた現象学の本を読んでいた時です。その頃は医学部の専門課程で勉強もかなり忙しいはずだけど、なぜかその本を線を引きながら読んでいました。
そして、そうしているうちに、はっきりとあの疑問がわきあがってきたのです。考えの流れをしっかりさせるために大学ノートに書きながら、思考を進めていきました。
「すべてが死によって終わる。死に際しても、私に価値なんかあるのだろうか?私は死ぬ、私は何をしたらいいのだろう?どうすればいいのだろう?」。
ずっと書き進めていくうち、引き込まれるように考えは深まっていきました。そして、やがて、自身の人生に対する態度は一変しました。
「ダメだ、今のような生活はもうできない、最も大事なことをやろう。今やっていることはもう終わりにして、自分の人生で一番大事なことをやるしかない」と、明らかになってしまいました。
でも、その晩の終わりごろには、すぐさま医学部を退学してバーッとどこかへ飛び出すという結論に進む代わりに、「あと二年ぐらいだから、卒業だけはしよう。でも卒業したら自身との約束として、百パーセント一番大事なことに自分を捧げよう」、そのように決めました。
二年間は猶予期間といいますか、ここで突然にすべてが変わってもショックなので、心やいろんなことが準備できるようにと、一種の潜在意識の、防御反応のようなものが働いたのかもしれません。
――大学を卒業されただけでなく、医師の国家資格も取られていますね。
医学部では、卒業するということと、国家試験をすませるということが、きわめて強いつながりを持っています。それで、医師国家試験もふくめて区切りをつけましょうということだったのです。
それまで医学部の勉強は一生懸命やっていたのに、最後の二年間の成績は超低空飛行でした。テストが通ればいい、「可」でもいい。そして時間があれば、これからの探求のためになりそうなものを探っていきました。
たとえば、心理学の河合隼雄教授や、哲学の上田閑照教授の講義を聞きに行ったり、他でも、ワークショップみたいなものに顔を出したりしていました。
進む道の模索
――ワークショップは、どんなものに参加されていましたか
一九八三年のゴエンカ氏の来日の折、天橋立での瞑想コースに参加しています。それが最初のテーラワーダの瞑想との出会いですね。
精神科の実習をサボって、十日間のコースに行きました。そのころは、ものすごくハングリーでした。何でもいいからとイベントとかワークショップを探していましたが、ゴエンカ氏のコースも、「ぴあ」のような関西版の情報誌で見かけたのがきっかけです。
二千年以上前に仏陀の説いた修行法と説明されていたこと、また、十日間とまとまった長さの時間だったので、より深いものが経験できるのではということで、参加を決めました。
当時は他にもいろんなことを試みていましたが、なぜか禅寺には行きませんでしたね。京都にいるから、大学の構内にも坐禅会の案内などもよく貼ってありました。長岡禅塾という禅堂の、住み込みで修行しながら大学に通う学生を募集している掲示もありました。かなり興味をおぼえたのですが、踏み切れなかったですね。
上田閑照教授の講義、作務衣を着て、頭をツルツルにした学生が、その先輩みたいな人に「よく思いきったねえ」なんて言われているのを見かけたこともありました。禅を含む、仏教の本は少々読んでいて「これは何かある」と感じましたが、自分の方から敷居を高くしてしまっていたのかもしれませんが、寺での修行とはなりませんでした。
「なぜ日本人なのに、禅ではなくテーラワーダなのですか」という質問を西洋人からとても頻繁に受けます。西洋では、日本の仏教イコール禅みたいにイメージしている人が多いものですから、こういう問いになりますが、日本の方ですと、「どうして、日本で出家しなかったのですか」ということで、やはりよく聞かれます。
それに対して、「縁に導かれてこうなったのだと思います」、というのが僕としては一番しっくりする答かと思っています。禅仏教、テーラワーダ、他のいろんな仏教、それらを並べ比べてみてテーラワーダを選んだというような、特に意識的な選択をしたのではなかったように思っています。
日本の仏教がだめだから、それにないものを探しに海外に行ったということではありませんでした。
インドへ
――それでは、どのような動機で日本を出ることを決意されたのですか。
整理された動機というより、気がついたらそういう選択をしていたというような感じです。京都大学の医学部を出ていればまわりが期待する。親であれ、知人であれ、誰であれ、なんとなく立派になれ、偉くなれとプレッシャーがかかる。
実際のところ、もちろん、そのようなプレッシャーというのは自らの心がつくっているものでしたが、とにかく、自分が一番大事なことをしようとした時、これでは自由になれない。だから日本を飛び出すという結果になりました。
こうしたことを、当時どれほど整理して自覚していたかははっきりしませんが、「ゼロ」になってしまえることにひかれるように、国外を選んでいました。
時間を見つけていろんなことをやっていたわけですが、ありがたいことに、京都大学はそんなに学生をしめつけて教育するということはなかったので、無事、卒業することができました。
そして、今は違うそうですが、当時は四月の第一土日が医師国家試験でした。国家試験の予備校というのがあって、そこで模範解答が試験後すぐに出るんですが、それと照らし合わせたら、合格するだけの点数があるのがわかりました。
当時は全部選択肢式の試験だったので、正確に自己採点ができましたから。医師国家試験ってそんな簡単ではないですから、どうなるかわかりませんでしたが、ホッとしました。
自分の中の一大事は他のところにある中で、何とか国家試験への準備をしてこれたのも、いっしょに勉強会に誘うなどしてくれた友人があったからこそで、今でも感謝しています。
これでやるべきことは果たしました。自分への約束通り、これからは自身にとって一番大事な事だけに100パーセント集中する時が来ました。模擬解答を見たその足で、大阪にあるツアー会社に行ってインドへの切符を手配しました。それが1984年4月の3日か4日で、成田を出たのは4月の15日か16日でした。
――なぜ、行き先をインドにされたのでしょうか
それには二つの理由があります。一番大きな理由は精神世界の源流があると感じられたということです。精神世界、あるいは宗教的なものの根本といいますか。仏教にしても、インドで生まれて、中国に来て、日本に渡り、ある種の完成をみる。
インドというのは混沌としていて、色んなものが生まれそのままある、すごくパワフルな場所で、深遠な存在です。だからこれは見ておきたい、触れておきたいと。
一方、もう一つの理由は、お金の問題です。目指す探求の道には時間がかかることが頭にありました。学生時代アルバイトをし、切り詰めてお金を貯めていましたが、生活費のかかるところに行けばそんなお金はすぐなくなります。
でも、いわゆる発展途上国に行けば、一日の生活費はかなり安くすることができます。ビザを長く出してくれ、生活費もかからないという実際的な側面の条件もインドは充たしていました。そして現地でも、それこそボトムもボトムの一番安いところ、一泊二百円とか、そのくらいのところに泊まったりしていました。
インドでは、どこに行こうというはっきりしたあてはなかったです。カルタッタから入ったのですが、まるで非現実の世界の中にいるように感じられました。日本での見慣れた風景とは全然違う。生老病死が隠されたり形を変えたりすることなく、そのまま目の前にあるんですね。
町の中をむき出しで死体を運んでいくとか、道端で病人が倒れているとか。日本だと病院などの奥にあったりする生老病死が、あたりまえなことのように、そこかしこにありました。
インドの四月はともかく暑いので、カルタッタからインドの西の端のカシミールに行って、そこからラダックに行きました。ラダックは、チベット文化圏に属し、ヒマラヤ西部の裏側の高地で、荒涼とした砂漠地帯も多い、厳しい気候条件の地方なのですが、そこで目にした人々の姿、暮らしは、たいへんなものでした。
牛が鋤を引いて耕地を耕しているのを見かけましたが、固く乾ききった土地も、牛も、人も、また建物もホコリをかぶって全部が黄土色。強い太陽の光に肌を焼かれているせいか、二十代の女の人でも、五十歳とか六十歳に見え、異様だと感じるくらいの強烈な印象を受けました。
その時の旅ノートに「あなたは、本当に生きているのですか、とそう問いかけたくなる」と書いたのを覚えています。僕の住む、この世界に、同じように生きているのですか、と。
インドが自分にとって非現実のような、夢の世界だとすると、ラダックは、夢の中のさらに夢の世界とでもいえる場所でした。
(つづく)
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取材・構成:森竹ひろ子(コマメ)&サンガ編集部
本記事は、『サンガジャパン20号 特集「これからの仏教」』の転載です。