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ポル・ポト政権時代とS21(トゥールスレン)ーー『ブッダの聖地2』鋭意制作中3
今回は、今入稿中の『ブッダの聖地2』の入稿原稿から、一部を抜粋してお届けします。
2020年5月末へ発売延期のお知らせ
まず最初にお詫びをしなくてはならないのですが、本書の刊行が3月末の予定から5月末に延期になりました。すでに多くの時間を費やしているのに再度の延期になりました。刊行を心待ちにされている方に、深くお詫びします。
先行予約特典の締め切り5月6日のゴールデンウィーク明けまで延長になりますので、ご予約お願いいたします。
さて、以下、本書からの抜粋です。カンボジア編のメインテーマとなるポル・ポト時代を各種の資料から解説しました。
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文:編集部
写真:馬籠久美子/編集部
われわれの訪ねたプノンペン南部のトゥールスレン虐殺博物館は、ポル・ポト政権時代のカンボジアを象徴する場所として、プノンペンを訪れた旅行者の多くが足を運ぶ。元は学校だった建物を政治犯の収容所としたこの施設は、当時はS21と呼ばれ、ポル・ポト政権の3年8か月の間に2万人の人々の命を奪ったという。ポル・ポト政権の徹底した秘密主義のため、その実態は分からないことが多いが、政権幹部の証言や残された資料などから、多数の研究がある。この項ではいくつかの資料を基に、ポル・ポト政権の姿を描く。
S21
S21の役割は虐殺ではなく、治安警察として思想犯の供述を引き出すことにあったという。2万を超える人々の4千を超える供述調書が現在残されている。1991-1992年にコーネル大学の援助で、マイクロフィルムにとられ、研究者が利用できるようになっている。
ポル・ポトが知識人を粛清したことは有名だ。前政権時代の関係者はもとより、医師や教師ら知識人、僧侶、芸術家を粛清していった。また自身の政権の幹部であっても彼が疑いを抱いたら、粛清の対象となった。1977年ごろからポル・ポト派内の粛清は激しくなったとされる。S21の囚人として記録されたのは、1975年は200人、1976年には2250人になり、1977年は6000人、1978年は1万人という記録だ。18歳以下のポル・ポト派兵士たちが看守だった。
『ポル・ポトある悪夢の歴史』
(フィリップ・ショート[著]、山形浩生[訳]、白水社、2008)
拷問風景の一説が『ポル・ポトある悪夢の歴史』(フィリップ・ショート[著]、山形浩生[訳]、白水社、2008)にあるので引いてみる。本書はアジア駐在のBBCのジャーナリストだった著者が、中国、カンボジア、ベトナム、フランスの各種資料にあたり、その生涯とクメール・ルージュの活動を詳細に記した伝記で、概念的にではなく当時のことを理解できる貴重な資料だ。
〈S-21での出来事は中央管理の対象だったが、まったくひどいものだった。部下の過剰な暴力をとがめた上級尋問官のポンは、過剰な暴力の中身を「囚人を死ぬまで殴り、腕と背中とペニスを裂くことだ」と具体的に説明するはめになった。囚人は街の病院で使うために血液を抜かれた。「かれらはポンプを使った」と、ある看守は振り返る――「囚人の血がなくなって、ほとんど息をしなくなるまで採決を続けた。聞こえるのは喘ぐような音だけになり、発作を起こしたように白目をむいた。用済みになると、死体は穴に投げ込まれた」〉(p. 561)
プノンペン郊外のチェンエク村には、現在キリングフィールドと呼ばれる処刑場があり、ここに連れてこられ殺され、村中に埋められた。この一説にある穴とは、キリングフィールドのことだろう。
S21には子どもを含め、2万人以上が収容され、拷問を受け、殺されていった。生きてこの収容所を出てこられたのは、たったの6人だった。
ポル・ポト政権とは
ポル・ポト政権下での死者数は資料によって数字が違うが、おおよそ80万から240万人と言われている。死因の内訳は分かっていないが、S21でのような虐殺死よりも、餓死が多かった。
そもそもなぜポル・ポト政権とは何だったのか。その歴史的経緯については別稿の高橋宏明教授の論考を参照いただきたいが、ここではポル・ポト政権下、1975年4月から1979年1月の間に起きていたことを、いくつかの資料から描出してみる。
絵に描いた餅の実現
ポル・ポトは共産主義による新しい国を作ろうとした。プノンペンの享楽に象徴されるような資本主義を否定し、階級を否定し、完全な理想的な共産主義国を作ろうとした。そのために、それまでの思想は古い思想として否定しさり、古い思想で汚れた人々を作り変えるか、消さねばならなかった。そのため、ポル・ポトは古い思想に汚染されていない子どもに価値を置いた。しかもそのやり方は狂気としか思えない。10歳以上の子どもたちは親と離され、子どもたちだけの集団生活をさせられた。
また、都市住民は汚染されており、農民は純粋だとした。都市から農村に強制移住させられた人々は「新人民」とされ、もともと農村に暮らす人々は「基幹民」とされて、「新人民」は自己を修正せねばならず、迫害された。
カンボジアの大地は肥沃で、アンコール王朝の灌漑施設に見られるように、もともと農業大国だ。しかしベトナム戦争当時のアメリカによる爆撃や内戦で大地は荒れて、農業のできる状態ではなかった。ポル・ポト派は農業立国を目指したが、パリに留学してコミュニストとなった彼らに農業の経験も知識もなかった。現実とかけ離れた、絵に描いた餅を自らも信じ込み、その実現に狂騒した。
ポル・ポトと仏教
フィリップ・ショートは『ポル・ポト』の中でこう分析する。
〈「物質的・精神的私有財産」の破壊は、革命の衣をまとった仏教的な超越だった。人格破壊とは非実存の達成だった。〔中略〕ブッダと同じく、アンカ〔引用注:オンカー〕はつねに正しかった。その叡智を疑うことはつねに誤りだった。〉(同前p. 484)
妄信を戒める仏教を正しく理解していないゆえの分析だが、クメール・ルージュはカンボジアの深い仏教信仰を利用したとはいえるかもしれない。ダンマの代わりに共産主義を、サンガの代わりに農業共同体を、ブッダの代わりにオンカーを、三宝への帰依心を利用した。同書によれば、実際、ポル・ポトは小学校に入る前、9歳から10歳にかけて、プノンペンの王宮近くにあるタマユット派のワット・ボトム・ワッディという大僧院で一時出家をしたらしい。それはカンボジアの仏教文化において自然なことだったろうが、そこで学んだ仏教は、いつか捨てられてしまった。
ポル・ポト達がパリに留学中に共産主義革命を目指すクメール・ルージュの核が形成されたという。ポル・ポトがカンボジアの人民統治の方法に仏教を牽強付会し、また自身のなかに仏教の代わりに共産主義という信仰を植え付けたともいえるだろうか。知識人や芸術家、西洋の価値観を持つ人間への殺戮とともに、僧院を破壊し僧侶を還俗させ、殺害していったことにもそれは表れているように思う。
四無量心の欠落
仏教を共産主義にすげ替えたポル・ポトだが、しかしそこには決定的に欠けているものがあった。四無量心だ。智慧と慈悲。机上の空論を無理やり現実にしてしまったようなポル・ポト=クメール・ルージュにおいて決定的に欠けていたのが慈・悲・喜・捨ではなかったか。だからこそ、内戦後の混乱期にマハー・ゴサナンダ長老が説いた智慧と慈悲の教え、四無量心の教えが人々の心に乾いた大地に水が染み込むように、浸透していったのではないか。
〈かつて村の生活の中心だった仏教僧院は閉鎖された。(中略)破壊された寺院もあったが(中略)その他の寺院は拘置所や倉庫に使われた。施しによって生活していた僧侶たちは寄生虫とみなされた。クメール・ルージュの用語で言うと、かれらは「他人の鼻で呼吸していた」〉(同前p.494)
この表現は、おそらくアーナーパーナ・サティを指しているのだろう。心の価値を無視して、仏教を否定し、修行を揶揄することで、心の成長や精神性を貶めているのがわかる。クメール・ルージュにとって、人々が四無量心を忘れず、七佛通誡偈を思い出し仏法に基づき行動することは、あってはならないことだった。その芽を徹底的に摘み、慈悲喜捨の代わりに恐怖の疑心暗鬼を植え込んでいったのだ。
家族を壊され、自由を奪われ、恐怖と疑心暗鬼で縛られた人が、主体的に精力的に働くはずもない。ポル・ポトは食糧の増産を計画し灌漑と開墾を人力で行ったが、一向に収穫量は増えなかった。統計数字は残されていないが、大量の餓死者がそれを物語っている。
クメール・ルージュはアンコールの遺跡群を破壊しなかった。経済を立て直した後に利用しようとしていたとされるが、観音菩薩の四面像がいったいどのように読み替えられていたか、そら恐ろしくもあり、興味深くもある。
無智の人
『ポル・ポト』の訳者あとがきにおいて、訳者の山形浩生は著者フィリップ・ショートの考え方を要約している。曰く、「ナチスが虐殺に有能だったとすれば、ポル・ポトたちは生かすことに(すさまじく)無能だっただけだ。」(p.682)
ポル・ポトやクメール・ルージュの幹部たちは、無能の恐ろしさを体現していたと言えるかもしれないと、山形は言う。そしてこうも言う。
〈その意図を見る限り、かれらは人民大衆を犠牲にして私服を肥やそうとかいうことはあまり考えていなかった。それはクメール・ルージュの多くの幹部もそうだ。〔中略〕多くの人は最後まで(ポル・ポト政権崩壊後も)、自分たちの(いまにして思えば)まったく無意味な行動が、本当に国をよくし、人々のためになると考えていた。かれらは、よく言えば理想を追い求め続けた。〉(p.685)
恐怖政治を徹底しジェノサイドを引き起こしたポル・ポトだが、彼自身は「自分は公益のために活動していると本気で思っていたし、遅かれ早かれ全員がそれを認めると思っていた」(同p451)という。
仏教の言葉で言うなら、ポル・ポトとは徹底的に無智を体現した人ではないか。
仏教とポル・ポトを連関させて考えるとき、一つの思いが浮かぶ。カンボジアの国と人を徹底的に破壊したポル・ポトは、ブッダとなったお釈迦様の人生の、もう一つの選択肢であった転輪聖王の、最悪のエピゴーネンを目指したのではなかったか。
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【参考文献】
船越美夏『人はなぜ人を殺したのか』(毎日新聞社、2013)
船越美夏『愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった』(河出書房新社、2019)
デービッド・P・チャンドラー[著]、山田寛[訳]『ポル・ポト伝』(めこん、1994)
フィリップ・ショート[著]、山形浩生[訳]『ポル・ポト ある悪夢の歴史』(白水社、2008)
Elizabeth Becker”BOPHAN”, Cambodia Daily Press,2010
【サンガからの大事なお知らせ】
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今後も不定期で、ブログも更新していきます。
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