Blog ブログ

2020.07.09

社長ブログ(ほぼ毎週金曜日更新)

板橋興宗禅師、大往生

サンガと板橋興宗禅師のつながり

2020年7月5日に、
御誕生寺の板橋興宗禅師が
93歳で大往生された。

 

思えば、サンガと板橋興宗禅師のつながり
は意外と古い。

歴史を辿ってみると、僕が最初に
興宗禅師と出会うきっかけになったのは、

2007年に春秋社から刊行された
板橋興宗禅師と塩沼亮潤さんの対談書
『大峯千日回峰行――修験道の荒行』を読んだことだった。

その当時、この本はベストセラーになっていた。

僕の地元は宮城県なのだが。
興宗禅師も宮城県多賀城市の出身で、
慈眼寺住職の塩沼亮潤さんも仙台の人だ。

そして、たしか本の中で、
僕が前にやっていた
しまかげアイスクリームの商品
「ビバオール」の思い出を語っていたのを読んだ。

そこで僕は興宗禅師に連絡を取ったら、
仙台に講演に来る予定があるという。

そして2008年、仙台市太白区民センター
「楽楽楽ホール」へ禅師に会いに行った。

その後9月に御誕生寺に取材に行って、
出来上がったのが『ありがとさん』だ。

気さくな興宗禅師の魅力

板橋興宗禅師は、
会った人ならわかると思うが、
それはとても気さくな人である。

それでいつも、
「島影さん、本ができたらたくさん買うよ」
と言ってくれる。
正直、それが僕はとてもうれしかった。

そしてまた、必ず朝晩、坐禅をするのである。

興宗禅師はもともと
神奈川県横浜市・大本山總持寺貫首、
曹洞宗管主だった人である。

曹洞宗では、管主になったら
死ぬまで管主でいるのが慣例らしいが、
なぜか興宗禅師はそれに安住せず、
曹洞宗の最高職の座を捨てて、
福井の越前市に御誕生寺をゼロから作った人である。

まさに「お釈迦様が生まれた」という意味のお寺だ。

興宗禅師は、
そんなに大きな意思決定をして、
大胆に行動する人には、普段は全く見えない。

「閑古錐(かんこすい)」という禅語がある。
これは、使い込んで先がまるくなり、
使えなくなった錐(きり)のことだ。
道具としては役に立たないが、
円熟した魅力がある。
だから禅では、真の修行者を指して、
閑古錐と言う。

興宗禅師は、まさにそういう人の感じだった。

スマナサーラ長老との対談書『仏教で生きる』

それでも、興宗禅師は
当時からずっと、朝と夕方に坐禅をする。

「私は、これができれば、もう満足なんですよ」
と言っていた。

趣味は、
筆で絵と句を色紙に書くことで、
それをもとにしたカレンダーを毎年作っていて、
サンガにもいつも送ってくれていた。

そしてしばらくたつと、
福井の日本テーラワーダ仏教協会の
会員の方から連絡があり、
「今度、スマナサーラ長老と板橋興宗禅師の対談を、
NHK『こころの時代』の金光寿郎さんの司会で
御誕生寺でやるから、ぜひ本にしてほしい」
と連絡があり、
2013年に、僕と由樹と川島で、御誕生寺に行った。

その取材でできたのが、
スマナサーラ長老との対談本
『仏教で生きる!――仏教対談「悩まない生き方」』である。

丸まった背中を指して「これでいいんだよ」

興宗禅師の思い出はいろいろある。

僕が御誕生寺で
禅師の部屋を横切ったときに
目が合って言った
「僕はこのラジオ番組が大好きなんだよ」
という言葉や、
「御誕生寺を作ったとき、何にもやらなかったが、
志だけ正しくもっていたら、
お金が自然と集まってきたので、驚いた」
という言葉だ。

いつも背中を丸めて坐っている自分を指して、
「これでいいんだよ」と言った言葉も印象深い。

また、みんなで食事をしているときに、
御誕生寺の修行僧に作務の修行を指示するときに見せた
意外な禅師の鋭いまなざしは、忘れられない。

僕は、禅師の意思をついだ
御誕生寺の繁栄を願うばかりだ。

編集部からの思い出① <編集部 佐藤由樹より>

私は、2013年に刊行した板橋興宗禅師とアルボムッレ・スマナサーラ長老との対談書
『仏教で生きる!――仏教対談「悩まない生き方」』
の編集の担当をさせていただき、
2013年に福井県の御誕生寺におうかがいして、
板橋禅師にお会いしました。

そして、穏やかで、少しひょうきんなお姿に、
今まで感じたことのないような親近感を感じました。

実は私は、板橋興宗禅師と同じ、
旧制仙台一中・仙台一高の出身だったので
同窓生の大先輩としても、
御誕生寺でお話させていただいたのを覚えています。

またサンガ代表の島影も仙台一高出身なので、
この日は御誕生寺に
3人の同窓生が集まっていたことになります。

板橋興宗禅師の旧制仙台一中時代は、
まさにバンカラな校風の男子校でしたが、私が
「仙台一高は2010年に男女共学になったんですよ」
と伝えたら、足を踏み鳴らして、
悔しがるような、喜びがるような、
何とも言えないリアクションをされたのが印象的でした。

板橋禅師は、
旧制仙台一中・仙台一高の
「バンカラ」な校風に誇りを持っていたのですね。

そして、取材を終えて外に出ると、
ネコと若者が自由な時間を過ごしていて、
お寺がデートスポットのようになっていました。

板橋禅師は、座り込んで自由に話し込む男女に
あたたかな声をかけて去っていきます。

私はその伸びやかな雰囲気に感動し、
御誕生寺は、日本屈指の魅力的なお寺だなあと感じました。

御誕生寺の若い修行僧たちを見ても、規律の中にありながらも
窮屈な雰囲気がまったくなく、
のびのびとした一体感で、喜びにあふれていて、
ほんとうに素晴らしいと思いました。

これが成り立ってるのは、
まさに板橋興宗禅師の人間性によるものだと強く感じて
仙台への帰路についたのを覚えています。

御誕生寺が、これからも魅力的なお寺として、
ますます繁栄していくことを願いながら
板橋興宗老師のご冥福をお祈りいたします。

 

編集部からの思い出② <編集部 川島栄作より>

『ありがとさん』を刊行したのは、2009年2月だった。
編集を担当したのはわたしだったが、取材は島影とその友人の池谷啓さんが、板橋老師とひざを突き合わせて数日にわたってお話を伺った。
当時私はサンガに入って1年に満たないときで、老師と呼ばれる方の本を本格的に作るのは、この時がはじめて。
14時間以上にわたる取材録音データをどさっと渡されて、「これで一冊つくれ」と。友人のフリーライターと協力しつつ、テープ起こしをして、構成を整えて、原稿の形にしていった。
当時の記憶があいまいなのだが、島影が取材に行ったのが9月らしいので、約3カ月で形にしたのだろう、どうにか目鼻がついてきた2008年12月、板橋老師とお電話でお話をした。
直接お会いしたことはなく、どのようなお言葉をいただくか不安でいっぱい、緊張しきって御誕生寺にお電話した。たぶん第一稿をお送りしてそのご感想をうかがうためだったのだと思う。
お寺の方に取り次いでいただき、あれこれの考えが頭をぐるぐる回りながらお待ちすること数分、老師が
お電話口に出られた。
「はい。板橋です」
その瞬間、私の中が空っぽになった。すっと、何もなくなり、心も体も落ち着いてしまった。
その時の日記には「午前中、板橋老師に電話。気が丹田にすっと収まる」とだけ書いているが、その感覚は今でも鮮明に覚えている。
本当に落ち着くとはこういうことか、と実感した。
それもただ電話口の一言で。
そのあとの会話は、和やかなものだった思う。

老師と呼ばれる方のすごさ、あるいはひとり板橋老師のすごさなのかもしれないが、静かな心のたたずまいが、離れていても及ぼす力を感じた瞬間だった。

以来、何度かお目にかかる機会にあずかり、そのお姿に触れることができました。
そのたび、あの電話の時の感覚が鮮やかによみがえったのです。
ご冥福をお祈りいたします。

7月末まで追悼フェア開催