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2017.09.12

編集部

第35回サンガくらぶ「アチャン・ニャーナラトー師法話会」のご報告です。

去る8月10日(木)におこなわれたニャーナラトー師の法話会は、とても素晴らしいものでした。

参加された方々の多くが、同様の感想を持たれたことと思います。

個人的にも強い感銘を受けたのですが、その後、中途半端な感想は書けないと思っているうちに、忙しさに紛れてひと月以上が過ぎてしまいました。申し訳ございません。

改めて、当日のメモに沿ってお話の内容を思い出しながら、以下に簡単なご報告をさせていただきます。

 

生きるということ、今こうしてあること ― surrender to the moment

ニャーナラトー師は、次のような質問を受けたことがあるそうです。

「輪廻と解脱のうち前者、世間一般のふつうの生活を否定して、解脱を求めることにしたのですね」

師はもともと医学生だったこともあり、出家すれば他人の役に立つことや、世界への貢献を放棄したことになるのではないかとの思いが、全くなくはなかったといいます。

今でも娑婆(しゃば)の苦楽が、「コブラの尻尾」みたいなものであることは変わらない。と同時に、「別に捨てたわけではない」「輪廻と解脱は対立し合うものではない」という思いがあるそうです。

また、「〈結局これをやって何になる〉というニヒリズムでは、輪廻から自由になれない」というご発言に、深く頷かれる方も多いのではないでしょうか。

「何になる」かと問えば、理屈ではノーしか出てこないからですが、それは逆の意味でこだわっていることになるというのは、確かにそうだと思わされました。

 

何も感じなくなったわけではない

むしろもっと感じる、安心して感じられるようになった。

自分の感情やふるまいが楽になったし、感じてもいい、見苦しくてもいい、と思えるようになったそうです。

ご家族の病や死を看取る過程で、受け入れられる、問題ない、と思える自分に気づいたとのこと。

ほとんど反応がないお母様の手を握ると、「いとしい」と感じる。コブラの尻尾とわかって掴みかけているような感じではあっても、頭の中で比較をしなければ、その時間は「いとしい」と感じる。

かつてはお坊さんがこんなことを思ってはいけない、と考えていたそうですが、今は許せるようになったといいます。

 

人間の存在価値は?

今後、AI(人工知能)がますます発展すれば、いずれ人間の存在価値が問われることになりかねません。そのような警鐘を鳴らす科学者も多い。

コンピューターがdo(する)の究極だとすれば、「釣針のない糸を垂らした太公望」のイメージ、つまりdoing nothingにそれを求められるのではないかと、師は言います。

瞑想する、マインドフルになる、これらは全部「する」の世界でのこと。

そうではなく、doing nothingで十全のあり方に戻る。

360度の経験がもともとあり、釣針がない時にはそれが見えている。

surrenderとは、消極的な意味合いではなく、現在の十全のあり方に戻ろうという強い決意表明なのだというお話に、感銘を受けました。

webサンガジャパンでご紹介した、「total relinquishment(全部、捨てる)」にも通じる内容のお話だったと思います。

 

質疑応答

その後数十分ほど、参加者からあらかじめ募った質問について師が答えられたのですが、その読み込みの深さがまた素晴らしいものでした。

単に人生経験が豊富だとか、人情の機微に通じているというだけでは、即座にこれだけの答は返せないと感じます。

変な言い方に聞こえるかもしれませんが、お坊さんってやっぱりすごいんだなと思わされました。

スタッフの一員として参加できてよかったと、心から思えるような会でした。