社長ブログ(ほぼ毎週金曜日更新)
羽生結弦と仏教
祝賀パレード前夜の熱狂
今回のブログのタイトルを見て、
「なにゆえに、『羽生結弦と仏教』???」
と感じた読者の方も、多いのではないだろうか。
よくわかる。
なぜなら、僕もそう思っているからだ。
それなのに、このテーマでブログを書いているのには理由がある。
4月21日(土)、僕は仙台にいた。
妻の由美子と娘の由希を乗せて車を運転していると、
由希が言った。
「明日の羽生結弦選手の祝賀パレードを見るために、
今から並んでいる人たちがいるみたいだよ」
由希は仙台のテレビ局である
東日本放送の記者をしているので、
こういう情報はすぐに入ってくる。
それで僕は、由希と由美子と一緒に、
その“現場”を見にいった。
たしかにいる。
いい場所をとるために、本当に今から並んでいるのだ。
今は、夜10時半。
パレードは明日の昼の1時半から始まるというのに、
前夜のこの時間から並んでいる。
それを見て僕はびっくりした。
どうしたらこんなに熱狂できるのだろうか?
妻と娘の斬新な視点
僕はもともと、オリンピックは嫌いではない。
特に冬のオリンピックは好きだ。
なぜなら、夏のオリンピックが「陽」ならば、
冬のオリンピックは「陰」のように感じられるからだ。
その冬のオリンピックの競技の中でも、
リュージュやボブスレーみたいな、
いかにもマイナーそうな競技を見るのが好きだ。
それはたぶん、「隠れ家的な居心地のよさ」を
感じるからなのではないだろうか。
でも、今回の平昌オリンピックは、
毎年恒例の「サンガツアー」で
スリランカに行っていた時期だったので、
一秒たりともオリンピックを観なかった。
だから正直、「羽生結弦と仏教」というテーマで
ブログを書く気は、さらさらなかった。
でも由美子や由希から、
「そんなことないよ。
社長ブログに書いたほうがいいんじゃない?
そのほうがブログの読者が増えるよ!」
と言われて、考え直してみたのだ。
仏教は世界の真理を語っているのだから、
仏教的な説明ができないものは、
この世に存在しないはずだと思う。
12万人のMissing Piece
羽生結弦選手のパレードに熱狂する12万人を見ていて、
僕はすごく違和感を持った。
まるで別世界の出来事を見ているようなのだ。
つまり、あまりにも僕から遠い世界なので、
馴染めないのである。
でもそれは、別世界の出来事なのだろうか?
いや、違う。
やはり、同じ世界の出来事で、
僕もその同じ世界に生きる人間の一人である。
羽生選手はオリンピックのフィギュアスケートで
2大会連続で金メダルと獲った人物だ。
そこに至るまでは、つらくて厳しい練習の連続だったろう。
なぜそれができるのだろうか?
それに耐えられるのは、金メダルという目標があり、
金メダルを獲ったときには、
人々からたくさんの称賛をもらえる
ということがあるだろう。
そして、その羽生選手の姿を見ている人たちも、
熱狂の渦に巻き込まれることで
「Missing Piece(失われしもの)を埋めたい」
という心理もあるのだろう。
これは僕が、遠い世界のことを分析しているのではない。
僕が、僕自身を見つめなおしても、そうなのだと思う。
スマナサーラ長老が、
4月19日の想田和弘監督との対談講演で、
慈悲について「Missing Piece」
というキーワードを使って解説してくれたように、
やはり「人から認められたい」という欲は、
人間が持つ最大の欲のひとつだと思う。
この点では、羽生選手も同じだろう。
決してこのパレードの話だけでもなく、
すべての人はミッシングピースを求めて、
日々さまよっているのだ。
仏教は、価値観が異なったり、
住む世界が違うような、遠く離れた人だったりしても、
みんな「平等な生命である」という原点から、
人間の本質を、いつも僕たちに教えてくれるんだ。
為末大さんのこと
書いていたら、為末大(元ハードル日本代表)さんのことを思い出した。
数年前、僕も一緒に恐山までついていって
南直哉さんとの対談本『禅とハードル』を作った。
スポーツ選手といえば大衆にとっての
「Missing Piece」(その象徴)みたいな人が多いと思っていたが、
彼は「勝つことだけが良いことなのか」
とか「なぜ走るのか」と考えていたり、
ちょっと違っていた。
「Missing Piece」が何かまでは、
きっとわからないだろう(僕もわかっていない)が、
その存在を探っているような人だったな。