社長ブログ(ほぼ毎週金曜日更新)
鎌倉01
今回は、なぜ「鎌倉01」なのか?
それは「鎌倉03」くらいまで読んでもらえればわかると思う。
それに僕は、サザンの『KAMAKURA』が大好きなので。あまり関係ないけど。
とりあえず01では、臨済宗での修行について語ることにしたい。
僕の修行時代
サンガを本格的に始める以前、20年近く前に僕の修行時代があった。
別に今は修行が終わったという意味ではないんだけど、当時はほとんど修行以外に何もしなかった。
ある臨済宗の道場に入り、「公案」と闘っていた。
その公案とは、「父母未生(ぶもみしょう)以前の本来の面目如何?」。
つまり、「父母が生まれる前の自分は何だったのか?」という則(公案の中の1問の意)。
まさに禅問答の真骨頂だ。
坐禅しながら、これにただひたすら集中する。摂心(体育会系リトリート)で、これを徹底的にやらされる。
ずいぶん後になって知ったネルケさんもけっこう坐るが、この時の僕も決して負けてはいなかった。
一日10時間以上、そして夜中も自主的に坐る。早朝4時に起き、深夜の1時2時になってようやく寝る。
つらい独参の日々
巨大な存在の「師家」がいる。
師家に「独参」するのが、この摂心のメインとなる。つまり先生に答えを言う。
独参するには、師家が待つお茶室みたいな場所に行く。立ち膝で入室しないとものすごく怒られる。
父も母も生まれる前なんだから、僕がいるわけがない。存在しているはずがない、だから「無」だ。
・・なんて答えると、師家の手中の鈴が即座に「チャリンチャリン」と鳴る。いかにも軽蔑的な響きで。
はじめのうちはまだいい。何かしら言うことがあるからだ。
「空」「師家を指さしてお前だと言う」「ワッハハハ(ただ笑う)」「我父母を持たず」「―――――(何も言わない)」「自分を指さし黙っている」
全てチャリンチャリンである。
そのうち独参するのがつらくなってくる。だんだんとものすごくつらくなってくる。
それは永遠に回り続けるジェットコースターのようだ。
道場をやめる
臨済では長方形の形になって、相対して半眼で坐る。支部長が上座で座を管理している。
2回も続けて行かないと、支部長から「島影行け!」と大声で怒鳴られる。
答えることがないからと、行かなければまた怒られる。まさに万事休すだ。
そうなるともう逃げるしかない。つまり、不真面目に作って答えるしかない。
チャリンチャリンは分かっている。それでも「見性」(悟り?)を目指して、何度も摂心に参加した。
そのうちに、僕は老師の侍者(老師の摂心中の面倒をすべて看る)になった。
あるとき老師が言っていた。「あの二人はもうひとつだけど通してやった」。
そんなのありかよと僕は思った。
だんだん年齢的に自分の後輩とか、新人とかが見性するようになる。
いつも一緒にやっているから、すごく自然にライバル心が育ってしまう。
ある打ち上げのとき、新人が先輩と話しているのを偶然聞いてしまった。
「本見て通ったんですが、これでいいんですかね」「そのうち分かるから、いいんだ」
話を聞いて愕然とした僕は、道場をやめる決心をした。