連載第2回
「5つのマインドフルネス・トレーニング」
私たちプラムヴィレッジの僧侶は、出家3年以内の沙弥は10の戒律(沙弥十戒)を実践し、正式な僧侶=比丘(タイ)になると250の戒律(具足戒)を実践します。ちなみに、比丘尼(女性の比丘)は、348の戒律を実践します(また、プラムヴィレッジの在家実践者のためには、5つの戒律もあります)。
戒律は、私たちが僧侶として生きていく上での基本指針です。2500年前にブッダが示されたものをその通り、今も継承しています。ただしプラムヴィレッジでは、私たちの今日の実生活に合うように、タイが現代的な表現へとリニューアルされています。
それからさらに戒律とはまた別に、私たち僧侶には、細かな日常生活の規範集(ルールブックのようなもの)があります。これはベトナム禅宗に伝統的に伝わってきたものを、やはりタイが現代的な表現へとリニューアルされています。それを現在プラムヴィレッジでは「マインドフル・マナー」と呼んでいます。けっこうの量があります。
私たちは、それらも全部ひっくるめて「戒律」と呼ぶことが多いです。
私(たち)とタイ。今年2019年のお正月。ベトナムの本山、慈孝寺にて。
今日ここではその「マインドフル・マナー」について、少しご紹介をしたいと思います。まだ日本では、ほとんど知られていないと思いますので。
以下は「マインドフル・マナー」第1章(全41章もあります)の、冒頭です。ですから、最も大切なマナーかも知れませんね。
「先生への敬意を表すため、彼及び彼女の名前をそのまま直接口にはしないこと。くだけすぎた印象を与えるので。もし先生の名前を言う必要がある時は、次のように言うのが良いでしょう。『先生の法名の最初の部分は◯◯、次の部分は◯◯』。あるいは、現在住まれている僧院名を用いて『プラムヴィレッジの先生(タイ)』」というように」
これを読んで、気がつれたでしょうか?
これまでの如何なる会話の中にも(法話の中でも)、プラムヴィレッジの僧侶たちがあの高名な師の名前を直接口にしたことは一度もない、という事実に。
現在私が書いているこの文章でも、私は師の名前をそのまま直接書き記すことは避け続けてきました。ですから、かなり回りくどい表現があったと思います。けれどもこの回りくどいやり方は、無意味だから捨て去るべきだ、そのように思われますか?
多分そう思われる方もおられるのでしょうけれど、私は、そうは思いません。
何とか師の名前を上手く、間接的に表現しようと思って、その度に私は立ち止まり、師の顔を思い浮かべ、その度に師への畏敬の念を思い起こしながら、ここまで書き進んできました。そのお陰で、書きながら私は何度も師の存在を真近かに感じることができて、その都度、深い安心感に包まれました。
そして、ああ、これが私たち弟子と、師の関係なのだ……と、いま実感しているところです。かなり不思議な関係です。師の名前を言おうとするたびに、師の顔や、師への敬意が思い出される、言わばそういう「システム」です。こういうのは現代社会では完全に失われてしまった、とても特別なシステムだな、と思います。
でもこのシステム=戒律のお陰で、古来より脈々と受け継がれてきた「師弟の特殊な関係性」に、今ここで生きている私たちもまた参入させてもらえる…そんな深い喜びも、感じられるのです。こうして師の名前を、工夫しながら、ここへ書き記していくその度に。
タイが指差されている部分 :「Sīla(戒)=Smrti (念=マインドフルネス=気づき、思い出す)」。
ふつう「気づき」と訳される「マインドフルネス」は、仏教用語「念」の英訳で、本来の意味は文字自体が示すように「今」の「心」ということです。
――字のつくりからこんな解説をされることも多いですが、語源的に見ると、もう一つ、マインドフルネスには大切な意味合いが含まれています。
それは「思い出す」という意味です。
「念」=「mindfulness」(マインドフルネス)の反対の英語は「forgetfulness 」(フォーゲットフルネス)と言われますが、その日本語訳を「失念」とすれば、よりわかりやすいかも知れません。
失念=忘れ去る。念=思い出す。
つまり、「マインドフルネス」とは「失念していたことに気づき、思い出すこと」とも言えるでしょう。
では、何を思い出すのでしょう?
「マインドフルネスの教科書」と言われている、タイが書かれた『ハピネス 〜マインドフルネス実践の基礎〜』は冒頭、次のような一文から始まっています。(邦訳『ブッダの幸せの瞑想【第二版】』島田啓介+馬籠久美子 訳より)
『ブッダの幸せの瞑想【第二版】』島田啓介+馬籠久美子 訳(サンガ)
私たちは日常的に呼吸しながら、呼吸していること自体を忘れています。これに対し、自分の吸う息と吐く息に意識を向けることが、マインドフルネスの瞑想の基礎になります。それを「マインドフルな呼吸」とか「意識的な呼吸」といいます。(『ブッダの幸せの瞑想【第二版】』)より
まずは自分に最も身近な「呼吸」を《失念していたことに気づき、思い出す》のです。
そして「吸う息と吐く息に気持ちを向ける」。
続けてタイはこうおっしゃいます。
日常生活の中で、私たちの体と心は、まとまりを欠いてばらばらになっています。そこで、吸う息と吐く息に気持ちを集中させると、心は体に戻ってきます。にわかに自分がどこにいるかに気づき、心が「今、ここ」に落ち着くのです。(『ブッダの幸せの瞑想【第二版】』)より
これが「マインドフルの瞑想の基礎」なのです。
さらに、タイは続けます。
呼吸をコントロールせず、息をありのままに感じましょう。……気づきの光に照らされれば、呼吸は自然に深く、ゆっくりとしてきます。意識的な呼吸は、身心を結びつけ、人生のどんな一瞬にもマインドフルネスのエネルギーをそそぎこむための秘訣です。(『ブッダの幸せの瞑想【第二版】』)より
これがマインドフルの瞑想の「基礎」なのです。と、もう一度ここで繰り返しましょう。
そして、この「基礎」からすすんだ応用編が、じつは「戒律」なのです。
ですから、こうとも言えるでしょう。
「戒律は、人生のどんな一瞬にもマインドフルネスのエネルギーをそそぎこむための《応用編》です」
先に紹介した僧侶生活の規範集には、私たちが僧侶としてとるべき行動・マナーがじつに細かく記されています(先生の名前を直接口にしないこと、はその最初の一つでした)。でもそれらが私たちを縛りつける「規則」や「ルール」ではなく、《気づき、思い出す》=「マインドフル・マナー」と名付けられていることには、大きな意味があるわけです。
タイは、法話でよくこのように言われます。
「戒律とは、人を強制する規則などではありません。戒律とは、気づきへの扉です。それは『失念』の暗い世界に囚われている私たちを、明るい『気づき』の光のもとへ連れ戻してくれる、自由と解放のトレーニングです。ですからプラムヴィレッジでは『戒律』という古いイメージの言葉はもう、あまり使いません。私たちはそれを『マインドフル・トレーニング』と言い換えています」
「5つのマインドフルネス・トレーニング」は、プラムヴィレッジの在家者たちが実践する戒律=トレーニングです。これはブッダ以来の伝統的な「五戒」を、タイが現代生活に合わせてリニューアルしたものです。
僧侶たちも在家時代にはこれを受け、全員がこれを北極星として実践をしてきました。そして出家後より多くの戒律を受けても、なお、私たちは2週間に一度必ず全員でこれを朗誦している重要なものです。
戒律の朗誦は僧侶にとって、とても重要なマインドフルネスのトレーニングです。
次にあげるのは「5つのマインドフルネス・トレーニング」の第1番「いのちを敬う」です。
これは「五戒」の一番目「不殺生戒」(殺さない)が現代版にリニューアルされたものです。
「いのちを破壊することから生まれる苦しみに気づき、相互存在(注: インタービーング。すべての存在はつながりあっていること)を洞察する眼と慈悲とを養い、人間、動物、植物、鉱物のいのちを守る方法を学ぶことを誓います。
私は、けっして殺さず、殺させず、自分の心と生き方において世界のいかなる殺害行為も支持しません。
有害な行為は、差別や二元的思考から生まれ、怒り、怖れ、貪り、不寛容から生じることを見抜きます。
私は寛容さと差別のない心を育て、自分の見方に執着せず、自分の心と世界にある暴力、狂信、教条主義を変えていきます」
上のように、タイがリニューアルされた戒律はすべて「◯◯に気づき」という言葉から始まります。ここが、戒律のキモの部分です。
「いのちを破壊することから生まれる苦しみに気づき……」
裏を返せば、多忙な日常生活にまぎれて私たちは、ほとんどそれを「失念」してしまう、ということでしょう。自分の呼吸さえも忘れ去ってしまうように。
だからこそ、私たち人間には「本当に大切な事」は繰り返し、「気づき、思い出す」トレーニングが必要なのだと思います。
この第1番「いのちを敬う」については、まだ出家したての頃、とてもビックリした体験がありました。
農園チームに配属された私は、薬効がある木の苗を何本も植えていく仕事を仰せつかりました。まずは、鍬で地面に穴を掘る作業に取りかかりました。
その日の植樹班のリーダーは17歳の沙弥でした。彼はわずか12歳で出家したので、ここではもう既に5年目の、大先輩の沙弥でした(20歳以下は比丘にはなれないので)。私は彼からやり方を習って、鍬を振るいはじめました。その時です。
「ブラザー・ニャッコワン!!」
大きな叫び声をあげながら、彼が駆け寄ってきたのです。
何事かと思って手を止めると、彼は
「コンキン! コンキン!」
コンキンとはベトナム語で蟻(アリ)のことです。
「えっ、アリー!?」
彼が指差す場所をよく見ると、私が鍬を振るっていた穴の端から、アリがぞろぞろ逃げ出していました。場所を変えて、と彼は言いました。
出家したての私は、とても驚きました。まさにカルチャーショックでした。
土を掘るのに、いちいちアリのことを気にして掘るのか! とも驚きました。さらに、少し離れた所から、私がアリの巣に鍬を打ち込んだのに気がついた、17歳の僧侶の「目」にも驚きました。
この時私は、自分が長年生きてきた世界とは決定的に異なる文化の中に投げ込まれたことを、肌で感じたのでした。それが、戒律の世界でした。
日本で普通に生活している方々には、まるで昔話か、おとぎ話の中の出来事のように聞こえるでしょう。けれども、こういう生き方を真剣に貫いている人たちが、じっさいこの世の中に存在しているのです。
どうでしょう?
理解不能ですか?
でも、どこかで……ホッとしませんか?
「5つのマインドフルネス・トレーニング」の全文を読まれたい方は、こちらからどうぞ。↓
ここではいろんな宗教者たちが一緒にマインドフルネスを実践しています。左は私(日本の神主・臨済禅)、右はプラムヴィレッジで8年間も実践を続けているタイ人テーラワーダの比丘です。
2019年5月8日〜10日。
私ブラザー・サンライトを含むプラムヴィレッジ僧侶団12名が、神奈川県にある曹洞宗大本山・總持寺にて、
「日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート~日本仏教とプラムヴィレッジの相互対話~」
を行います。共催してくださるのは、全日本仏教青年会。
2泊3日の私たちのリトリートを貫く全体テーマは、
「仏教における〈原点(オリジナル)のマインドフルネス〉」。
ゲストに藤田一照・蓑輪顕量 両先生をお迎えしての特別プログラムは
「日本仏教におけるマインドフルネス」
「仏教の戒律・サンガと、マインドフルネス」
についての、レクチャー&ディスカッションです。
總持寺の朝課に参加しながら、プラムヴィレッジの僧侶たちと一緒に瞑想し、学び、対話し、体験をしていく、2泊3日のリトリートです。
《日時》2019年5月8日〜10日 《会場》曹洞宗大本山總持寺
《特別プログラム・レクチャー》
①「道元の禅・無心のマインドフルネス ~その理論と実践~」
講師: 藤田一照 先生(前曹洞宗国際センター所長)
②「仏教における戒律の問題と、マインドフルネスの意義」
講師: 蓑輪顕量 先生(東京大学人文社会系研究科教授)
③「戒律、サンガ、マインドフルネス・トレーニング(気づきの練習)の密接な関係について」
講師: ブラザー・ファプチャック (プラムヴィレッジ・ダルマティーチャー)
⭐️「日本伝統仏教者のためのリトリート」です。参加者には僧侶の方が多いですが、仏教徒であるという意識のある在家の方々のご参加も可能です。是非一度ご連絡ください。
→ お申し込み・お問い合わせはコチラから: http://www.jyba.ne.jp/activity/workshop/retreat.php
本リトリートへの御参加のお申し込みを、心よりお待ちしています。
主催/全日本仏教青年会・プラムヴィレッジ招聘委員会
協力/曹洞宗大本山總持寺・公益財団法人仏教伝道協会
後援/世界仏教青年連盟(WFBY)
【プロフィール】
ブラザー・サンライト(俗名:宮下直樹 みやした・なおき)
1964年、富士山麓の古い神社の家系に生を受けるが、フジヤマ織りの会社を営む父の仕事で、大阪に生まれ育つ。大学で東京に出て、竹内敏晴、野口三千三と出会う。彼らの元で身心ワーク(竹内レッスン、野口体操)に開眼。仲間たちと独自の身心ワークの探求(虹の会)を開始。大学院(フランス文学研究科)での研究テーマは「リアリズムとは何か」。この頃、富士山麓の神社の宮司となる。その後、坐禅の本格修行に入って10年間、臨済宗の専門道場に通参。2012年8月、東京八王子のミニリトリート(東京サンガ主催)でプラムヴィレッジの「マインドフルネス」と出会う。2013年、ティク・ナット・ハン師を日本に招聘する活動を開始。その後、仲間たちと「微笑みの風サンガ☆東京」「プラムヴィレッジ招聘委員会」を立ち上げ、毎年「プラムヴィレッジ僧侶団マインドフルネス来日ツアー」を実現。2016年、2017年と、タイ プラムヴィレッジで「三ヶ月間出家プログラム」を二度体験後、正式出家して、沙弥となる。2019年4月末、「来日ツアー2019」でプラムヴィレッジの僧侶となって初来日する。
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