これを記し始めたのは、折から“ソンクラーン祭”というタイ人のお正月(一月一日に迎えた二五六一年<西暦二〇一八年>の仏暦はそのまま)が幕を開けたばかりで、私がチェンマイへ来てから三度目の「新年」を迎えた日のことでした。
ふつうは「はじめに」といった挨拶から始めるのを、あっさり省いたのは、そうした区切りのよさに加えて、まえがきに書くべきことは、本文中でも十分に述べられることだからです。小むずかしくなる話は後まわしにして、いつのまにか読まされてしまうといった成り行きのほうが読み手のためかと思います。
やっと冷水シャワーが苦にならない季節が、その時期にやって来ます。太陽暦の四月十三、十四、十五の三日間、タイ人にとっての本当の正月であるその祭は、多くの仏教行事が陰暦(太陰太陽暦)に基づいているのとは違って、例年、日程がうごくことのない 大 祭日です。
大、とつけたのは、実際に最も大切な祭日であることに加え、マーハー(大)・ソンクラーン、というのが正式な呼称だからです。ソンクラーンとは、サンスクリット語が起源の、移動する、入っていく、という意味の語で、太陽が一つの星座(宮)からもう一つの星座へと入っていくこと。とりわけ魚座から牡羊座(白羊宮)へと昇っていく四月のその時期を(年に十二回あるソンクラーンのうち)とくに「大」の名をつけて呼ぶわけです。
その瞬間を正確にいえば、仏暦二五六一(西暦二〇一八)年の場合、十六日、十二時五十九分二十四秒、ゆえに、わが寺院(のみならず)では、十六日の朝に「新年」の勤行がとり行われたのでした。つまり、忠実に天文学上の日時に従ったわけです。こういうことを知っているのはタイ人でも少ないらしく、そんなことより、三日間の大騒ぎを楽しむことのほうが大事で、広報もあまり重要視はしていません。
その日(十三日)は、午前三時半起床(いつもこの前後)、房(へや)の温度、摂氏三十一度。昨年の十二月に記録した十三℃(山岳部では七℃)をボトムに、つい先ごろまでは涼しくて、二十五℃~三十℃の間を行き来していた気温が一気に三十度を超え、四十度に向かってウナギ昇りとなるのです。この突然のように訪れる暑さはチェンマイ特有のもので、“水掛け祭”の別称を持つ、ら しい 一日の始まりです。
起床後にやる日課は、一日のはじめにやる短い唱え(この「省察」についてはいずれ)、シャワー、パソコンによる書きモノ(キーボード叩き)少し、そして午前五時からのFMラジオ<仏教講座>を聞いた後は、托鉢に出る準備です。といっても、髭ソリは二日に一度、歯磨きは前日の昼にすませている(その後は何も食べていない)ので軽くすませ(ときに口をすすぐだけ)、あとはチーウォン(黄衣)をきちんと着けることが主な支度です。
その着付けにはとうに慣れていながら、昨年の終り頃、棒状に丸めた衣を左肩に掛けるとき、左の腕に妙な動きを加えたことから激痛が生じ、それが未だ癒えません。ほんのちょっとした、ふだんはしない動作をしただけでそうなってしまうのは、やはりトシから来るのでしょう。ために、チーウォン(黄衣)の着用には時間がかかるのと、加えて数週間前、ちょっとした足元不注意(集中力の途切れ)から足裏にトゲがささり、その傷を守るために包帯をするのに少し手間がかかります。もっとひどい怪我のために消毒薬と絆創膏はアンサ(肌着)のポケットへ、コンビニでのちょっとした買い物用に小額のお札(バート)とメモ用紙(+ボールペン)を胸のポケットへ、あとは献上品が多い(鉢に入りきらない)日のためのビニール袋が一、二枚入っています。もっと細かくいえば、腰巻(サボン)の帯には、その荷袋が重くなったとき、途中で休憩するときに敷くタオルと手指のしびれ防止に使うミニ・タオルが引っかけてあります。
托鉢に歩く筆者(ターペー通り)
午前六時過ぎ――、すでに白々と明けて、托鉢開始の条件としての、手のひらの指紋がみえる程度の明るさは超えています。僧房の前庭は、本堂の裏手に当たり、そこへと降りる前に部屋履きのスリッパを脱ぐのも務めで、裸足の一歩を石畳へと踏み出します。本堂の脇と仏塔の間をしばらく歩き、すでに金網の扉が開かれた門を出ていきます。
お祭り気分は前夜から始まっており、歩道には危険なものが散らばっているため、いつも以上にしっかりと斜め前方へ視線を定めて歩かねばなりません。旧市街のほぼ中央を東西に走る通り、タノン・ラチャダムヌーン(「タノン」は道の意)を東へ、ターペー門に向かって歩いていくと、ちょうど太陽が門の向うに昇り始めています。まだ真っ赤なままで、まさにデーン(タイ語で「赤い」の意)と居座っており、大通りを歩く間に、だんだんと眩しさを増し、後ろへと長い影をつくります。
ターペー門というのは、旧市街を取り囲む城壁(現在は全部で門が五ヵ所あるラーンナー王国時代の遺構)のうちの一つで、門を出ると広場になっています。ふつうはこの辺りから布施が始まるのですが、その日は、門に差しかかる前から始まっていました。ターペー通りへと広場を後にする頃にはすでに鉢は一杯で、きっと今日は多いと覚悟して携えてきた二枚のビニール袋のうち、一枚を取り出して移し替えます。一瞬、引き返そうかと思ったのはやはり左の肩が痛むためで、しかし、いつもの折り返し地点までもてばよい、と正月気分を引き締めて、太陽に向かって歩をすすめます。
ふだんは口開けの布施となる、広場前に商家をかまえる老婦人は、昨日から香港へ旅行に出かけており、店のシャッターは閉じたまま。老婦人といっても私と同じくらいの歳かと思うけれど、毎朝のように待ち受けて、何かしらのモノを鉢に入れてくれる、いわば常連、お得意さまです。二ヶ月前の二月には、札幌の“雪まつり”に家族(五人)で行ってきたという、それだけ聞いてもかなり裕福な人で、私を含めて何名かをニモン(僧をもてなしてブン<徳>を積むこと)する余裕は十分にあるのでしょう。古代インド、釈尊の時代から、そういうお金持ちのことを「セーティー」といって、僧とその集団(サンガ)の支えとなる存在でした。そのような関係性は、テーラワーダ仏教においてはいまに至るもしっかりと続いており、相当な親日家でもあるご婦人の場合、私にはとくによいものを選んでくれている気がします。
そして、もう一人、これはターペー門から三百メートルほどの所で待ち構える老婆がいます。私より十歳上の七十九歳、もう長い布施付き合いになるその方は、路地を奥へと入っていった先の屋敷に住んでいる、顔立ちの穏やかな、若い頃はリッパな美人であったはずの方です。起床は三時、それから作り始めるのはご飯と惣菜、加えてスィート(豆や芋類、又はバナナなどをココナツミルクで和えたもの)の三点セットで、これを十組ほど用意します。たっぷり二時間はかかるはずの支度を終えると、手提げの平べったい籠に満載し、明けたばかりの路地を表通りへと出てきます。出てきたばかりのところでばったり会えば、私が口開けの客となり、ターペー通りを向こう側へ渡って一軒のホテルの前にある椅子に腰かけて待つときは、すでに何番目かのニモンです。その日は、老婆の厚意でやっと間に合います。というのも、三点セットが最後の一組となって、遠くから歩いてくる私の姿に気づき、通りを渡って路地の入口まで引き返してくるのと、私がそこへと着くのが同時でした。
マーハー・ソンクラーン、とおばあちゃんはニコニコと嬉しげです。ふだんから自分の料理をきっと食べてくれるとわかっている私が、最後のニモンに間に合って、「サワディー・ピーマイ(おめでとうございます)」といったのに対して、「今日は大ソンクラーンです」と、しっかりと「大(マーハー)」をつけて声を発したのでした。若い人たちは、ソンクラーン、としかいわないけれど、さすが歳を重ねた敬虔な仏教徒だけのことはあって、大 きな違いはこのへんなのでしょう。
托鉢中に町の人々から布施を受ける
もう歳なので地にうずくまることはせず、三点セット(ビニール袋を束ねて口を輪ゴムで括ってある)を私の鉢へ入れると、立ったまま前かがみになって合掌します。いつもは椅子に腰かけたまま掌を合わせるだけで、むろん老人(または屈めない人)はそれでいいわけですが、サンダルだけはきちんと脱いで僧と同じ裸足になります。
この習慣は古来のもので、その昔、寺院の敷地に入るときも人々は靴を脱いだそうです。昔の境内は砂が敷きつめられており、それを踏むのに裸足であるべきとしたのはむろんブッダへの敬意からで(戒律のなかにも「靴を履いた者に法を説くべからず」がアリ)、帽子や日傘のようなものも礼を失するものとされています。そうやって裸足になって砂地を踏むと、当然ながら足裏に砂をつけ、それを退出するときは持ち出してしまう、ために、一年の間にはだいぶの量になることから、それを返さないといけない、境内へお返しするということで、年に一度の新年、大ソンクラーンがくると、みんなして川から砂を集め、寺に運びこんで砂の塔(チェディー・サーイ〔タ〕)を築くのが習慣となったのでした。この事については、ただ徳(ブン〔タ〕)を積むため、としか説明していないものが多いのですが、寺に砂を返す意図、それも足裏につけて持ち出したものを返す、という民衆の細かい心づかいが加味されてはじめて、なるほど、と納得がいくのです。ただ、私のところでは(その他の寺もおよそ)、一週間ほど前に業者が砂を運び入れ、在家の作業に僧も加わって、砂塔を三基、仏塔の脇に造り上げたのでしたが。
筆者が止住するパンオン寺の砂塔
履物を脱ぐのは仏へ(且つ托鉢僧へ)の敬礼のため(先の戒とも関連して)、というのはよくわかる気がします。そもそも靴などというものはゼイタク品であって、本来はなくてもすませられるものです。現にいまの私は、針の山でもないかぎり、どこへ行くにも裸足でと命じられても苦ではないくらい、足裏は森に住むドウブツの皮となっているわけです。ツヤのある黒っぽいなめし革のごとくで、これは思いのほかでした。
話を戻せば、そうして前かがみになった老婆へ、最後のニモン僧のやるべきことは決まっています。つまり、締めくくりとして、重ねたブン(徳)がこの世を去った人たちへも届けられることを述べる(願うのではない)経をとくべつに前置きするのです。これは、アヌモータナー(祝福の経)の一部で、「随喜発勤偈(アヌモータナーランバ・ガーター)」という難しい名がついています。
ヤター(~のように)……から始まるパーリ経の意味は――、水を湛えた河が流れ出て大海を満たすように、あなたからの布施(その徳)はすでにこの世を去った人たちへも届けられます……。
ここまでは、法としてのタンマ(〔パ〕〔タ〕)の伝達です(パーリ語はダンマと濁音に近いようですが、「タム」ともいうタイ語は清音)。これは、来世にいる人にも届けられますように、と願うものではなく(このように記している書が多いけれど)、ここは断定、確信でなければなりません。布施は大事な徳(ブン)を積む行為(タム)で、「タンブン〔タ〕」と呼ばれていますが、そのブンが、アバイヤプーム(いわゆる六道のうち人間界、天界以外の地獄、餓鬼、畜生、修羅を指す)、なかでも餓鬼(ペータティウィサヤプーム)と名のつく「界」にいる(食もなく飢えている)かもしれない 人たちへ(この死後に行く世界についてはいずれ)、すなわち自分の肉親(親兄弟)をはじめ、親戚や知友、縁者等へ、きっと配送されることを祝って差し上げる経なのです。自分の両親、兄弟のみならず、誰であってもいい、ブンを送りたい人ならオーケーで、その配達をやってくれるのは(宅配便でいえばクルマと運転手)、ほかならぬ「水」、ただの清水です。ために、これを「滴水供養(クルワット・ナーム)」といいます。
おばあちゃんの場合、小さなボトルの水を別に用意したカップに注ぎ入れます(カップのない人は地面へ直接も可)。合掌は片方の掌だけでして先の経を聞くのですが、その続きは(ここからが願って差し上げるもの)――、あなたの願いごとが速やかに成就しますように、その望みのすべてが満月のごとく叶えられ、宝石のような輝きに満たされますように……。
むろん、すべてパーリ語で、はじめは舌の根を噛んでしまうという生まれてはじめての経験もしたのでしたが、いまはもうそういうこともありません。冒頭の “ヤター ワーリワハー プーラー パーリプーレンティ サーカラン……” などは、ながいこと慣れず、しかし、カタカナ表記が不可能な音はパーリ語にはない(いまのところ見当たらない)ことも確かで、ただクンレンあるのみ、といったところでした。
それは措くとして、経はまだ続きます。水を用意していない人には、ふつう、ここから始めるのですが、一連の意味を簡潔にいえば――、あらゆる凶兆や病、災いから逃れ、幸福かつ長寿をまっとうされますように、そして、さらには、目上の人を敬う者には四つの法の恩恵、すなわち長寿、美、幸福、力が与えられる(この一文は断定)、というものです。その冒頭、サッピーティヨーウィワチャントゥ……、と始まるときは、すでに水は注ぎ終え、ふたつの掌を合わせて聞くことになります。これを知らない在家もたまにいて(おばあちゃんはしっかりとわかっている)、ずっと最後まで注ぎつづける方もいるのですが、教えてあげる僧はいません。そもそもパーリ語の意味などもわかっていないに違いなく、信心があればそれでいい、というわけでしょうか。
思うに、これほどケンラン豪華な経はちょっと他に見当たらないのではないかという、はじめの感想はいまも同じです。聞き終えたおばあちゃんは、合掌したまま、サードゥ〔パ〕、と一度ゆっくりと口にして、いかにも嬉しげな笑顔を見せてくれます。よろしい、けっこう(な経)でした、といった意味のその一言は、いろんな場面で使われる(三度くり返すこともある)のですが、托鉢のときも経の後でしばしば返されます。それが経に対する返答であり、あるいはアタマを両手で撫で上げる仕草をする人も多く(これは自分を守る意思の表明)、帽子をかぶっていたのではそれもできない相談です。バイクを歩道に寄せた人もむろんヘルメットを脱ぎ、かつ裸足になって(脱いだ靴やサンダルの上に足や膝を置くのは可)、また雨の日でも傘をさして経を聞く人などは見たことがなく、大した降りでなければ濡れながら、大降りのときは建物の軒先にいて布施をし、経を聞くのが常なる習慣です。
さて、そうやって次々と品々を受けながら歩くうち、二枚目のビニール袋もふくれてきます。用意したミニ・タオルが役に立つときで、途中、適当な場所で休憩をし、それを袋の取っ手につけて携え、首にかけた鉢のヒモを整えてから、いつもの折り返し地点を目指します。
その頃には、東の空の太陽も輝きを増してきます。今日も暑くなりそうな気配のなか、路傍にはミニ・バケツや水鉄砲、さらには防水用のビニール袋や水中メガネ、それにディン・ソーポーン(白色の土を円錐形に固めたもの<肌によい>で水に溶かして自他ともの顔に塗りつける)などを売る露店が並びはじめます。傍らの大きなドラム缶にはすでに水が満たされて、準備万端といったところです。チェンマイの水掛け合戦はとりわけすさまじいことから事故も多発するわけですが、今年もまたずいぶんな結果になることはいわずと知れています。政府広報は、飲酒運転の危険や交通ルールの厳守を呼びかけているけれど、粗暴な外国人客もふえたお祭りの行方は予断をゆるしません。
やっと辿り着いた折り返し地点には、いつもの人たちがピックアップ車と共に待っています。年かさのいった女性と男性(ときに老婆も一緒)の組で、男性は別にバイクを一台持っており、僧たちの荷を寺まで運ぶ役目をしています。ピックアップ車の荷台には、献上品とビニール袋、それに僧たちから預かった荷が積んであります。布施して経を聞いた後は、僧の鉢のなかにあるものをビニール袋に入れ替える手伝いをし、多いときはそのまま預かって、男性の方がそれぞれの寺までバイクでひと走りしてくれるのです。雨の日も風の日も、休んだことなどかつてなく、女性の方がたまに不在の日でも必ずや代わりの人が出てきています。かつて一度だけ、道路が洪水となった嵐の日で僧も出られない日に、やはり休んだということを後で聞いたことがあるくらいのもので、それは見事といってよいほど休みなしのキンムなのです。
先の老婆もそうですが、こういう人たちが僧を生かし、サンガを支えてきたのだとよくわかる光景は他にない、という気がします。この強固な、民衆とサンガの関係は何なのだろうと、何ゆえにこのような揺るぎのない関係性が築かれたのか、という思いは私が僧になって以来のもので、いまもあります。それがいわば私のテーマの一つとなったのですが、追い追い折にふれて述べていくとして――、その日もまた、荷運びをお願いするほかなく、男性の方も私の姿をみとめると、急ぎ駆け寄って手助けをしてくれたのでした。
注:〔タ〕=タイ語、〔パ〕=パーリ語
プラ・アキラ・アマロー(笹倉明 ささくら・あきら)
Phra Akira Amaro
一九四八年、兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒。広告代理店、フリーライター等の職を経て、一九八一年『海を越えた者たち』で第四回すばる文学賞佳作入選。一九八八年『漂流裁判』で第六回サントリーミステリー大賞受賞。一九八九年『遠い国からの殺人者』で第一〇一回直木賞を受賞する。主な作品に、『砂漠の岸に咲け』『にっぽん国恋愛事件』『旅人岬』等。二〇〇五年にタイへ移住、二〇一六年春、チェンマイ(パンオン寺)にて出家し、現在に至る。
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