こんにちは、普段は高校教員として世界史を高校生に教えている「じんくみ」です。
前回紹介した教育者リトリートで語った体験談その①
に続いて、今回の話はその続きです。
マインドフルネスもプラクティスもよく分からないまま私はタイのプラムビレッジに辿り着きました。
終業式が終わった翌日にしか旅立てなかったので、年末リトリートはすでに始まっていて、私がついたのは2日目の夜中でした。
翌朝、よく分からないまま座る瞑想に参加し、そのまま流れて歩く瞑想に参加しました。ゆっくりと黙って歩く。でも、これは一体何なのだろう?
朝ごはんや昼ごはんは食べる瞑想。静かに黙ってゆっくり食べる。でも、それが何だというのだろう?
表面的には黙っていましたが、頭の中ではぐるぐると色々なことを考え、忙しい状態でした。
ダルマシェアリングの時には、参加者の人たちが「歩く瞑想にすごく感動した」という話をしていたり、自分の家族の昔のことを思い出したという話を涙ながらに語ってくれたりしました。でも私には分かりませんでした。なぜそんなにみんなが感動しているのか。ゆっくり歩いたり、ゆっくり食べるということの何にそんなに心動かされるのか。輪になって初めて会った人たちに家族の問題を涙ながらに話しているのはなぜなのか、最初の数日はよく分からないまま過ごしていました。
「きっとこれは、トラウマを抱えた人たちとか、救いを求めている人たちがやってくる場で、そういう人の心にはすごく響くのだろう。ここはそういう人のための場なのだろう。」
と思っていました。私はトラウマを抱えているわけでもないから、私にはあんまり関係ないのかな、と思っていました。
そんな私でしたが、それでもシスター・ブラザーのあり方というものに心打たれる場面がいくつもありました。歩き方に。15分ごとの鐘で立ち止まる姿に。
ある時シスターたちが歓声を上げて驚いていていました。木にある何かを見ていたようでした。「何だろう?」と思ってみてみたら、そこにいたのはイモムシでした。このイモムシに対して、あんなに歓声を上げていたのかということに対して私はかえって驚きました。
そして彼女たちと同じようには驚くことができなくなっている自分自身に気がつきました。世界を「知ってるもの」と思い込んで瑞々しい感性を失ってしまっているけれど、本当は世界には歓声を上げて驚くような興味深いものが溢れているんじゃないか。それをただ私は見る力を失ってるんじゃないか。そのシスターたちを見ていてそう思いました。
あるレイジーデー(怠ける日)の朝、私は朝焼けを見ようと外へ出て行きました。歩く瞑想の時に見られる日の出の風景がとても美しいので、それを見ようと思ったのです。すると、ある10人ほどのブラザー・シスターたちがゴザを広げてお茶会をしていました。楽しそうにオシャべりをしながらお茶を飲んでお菓子を食べています。
とても楽しそうに見えたので私は「私も混ぜてくれない?」と頼みました。
すると彼らは「もちろんだよ!」と言って入れてくれました。
彼らはベトナム人のブラザー・シスターで、ベトナムのお茶とお菓子をそこで食べていたのでした。入ってみて話し始めてわかったことは、彼らの多くはそんなに英語を話すのが得意ではない、ということでした。
私が入ったことで、彼らの会話はとても簡単で短いものとなりました。それまではベトナム語で楽しそうに賑やかにおしゃべりをしていたのが、急に静かなお茶会となってしまいました。「美味しいね。」と言った後にしばらく沈黙の時間が続いたり。
私は「悪いことをしたなぁ。ここに入れてって言わなければ良かったかなぁ。」と考えていました。もし私がいなければ、彼らはベトナム語で楽しくおしゃべりができたのに、私が加わったから、気を遣ってベトナム語でおしゃべりをすることができず、静かなお茶会になってしまった。申し訳ないなぁ、と思っていました。
そのお茶会の最後に「一人一言を言おう。」ということになって、彼らから話し始めててくれました。そこで彼らが言ったことは「今日はここに来てくれてありがとう。あなたがここにいてくれたから、今日のお茶会がとても特別なものになったよ。あなたの存在に感謝します。」ということでした。何人ものブラザー・シスターがそう言ってくれたのです。しかも、心からそう言ってくれているのだ、ということがよく分かりました。
私は感謝を伝えてその場を去りました。
そのあと一人で歩く瞑想で使っている小道を歩いていました。先ほどの出来事と言葉が自分の中で染みていました。私は泣いていました。ただただ、それが何であるかも分からずに泣いていました。
「あなたがここにいてくれて嬉しい。ありがとう。」その言葉が胸に響きました。それが単なる上辺だけの言葉でないことが伝わってきたからです。
そしてその時私は自分が担任をしているクラスの生徒たちのことを考えていました。
私は彼らが存在してくれていることを本当に嬉しいと思っているのだと。そして、彼らの存在に私がどれだけ支えられているか、ということを。
生徒がいなければまた「先生」というのも存在しません。私と生徒たちはインタービーイング(相互に支え合う存在)なのだ、ということを心から感じた瞬間でした。
それまでは生徒を助けるのが先生だと思っていました。でも実際に助けられていたのは私でした。
それまで、生徒の可能性を伸ばしてあげるのが先生ができることだと思ってました。でも、実際に先生ができる一番の贈り物は「あなたがいて、私はうれしい。」と伝えることだと思いました。存在を祝福し、喜ぶことです。
勉強ができるから、とか、手伝ってくれるから、とか、先生の言うことをちゃんと聞くから、とかではなく、ただ「そこにいる」ということを喜ぶことが、先生のできるベストなことだとその時私は思いました。
だから、帰ったらその時、担任していたクラスの生徒たちに伝えました。
「タイのプラムビレッジに行って気づいたんだよ。みんながいてくれることを私はとても嬉しいって思ってるってことを。みんなが私を支えてくれてるってことに。」
それを聞いたクラスの中には温かい空気が広がるのを感じました。中には涙を流している子もいました。勉強が得意な子たちではありませんでした。でも、人としての温かさを持った優しい子たちでした。
私はこれからも出会う生徒たちに「あなたがいて嬉しい。そのままで十分。」ということを伝えようと思いました。
その次の年に異動になりました。それまでとは全く違う環境です。今度は世界史を英語で教えることになりました。そこで発見することになるのは人に対しては「そのままで十分」と言えても、自分に対しては中々いうことのできない私でした。
つづく。
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