先日、新宿朝日カルチャーセンターにおいて「仏教3・0を哲学する・2」という鼎談を行った。鼎談のお相手は禅僧の藤田一照さんとワンダルマ仏教僧の山下良道さんで、私の主要な役割はお二人の共通の師である内山興正老師の「自己ぎりの自己」という奇妙な概念の哲学的な意味を考えることとなっていた。私自身は今のところまだ疑心暗鬼なのだが、事前のお二人のお話では、この問題は仏教そのものの根幹に関わるという。仏教との関係がどうであれ、私にとってこの問題はとびきり重要であり、そのうえ仏教との関係も深いとあれば、ただ鼎談の場で口でしゃべって終わらせるのではなく、私見を活字として残しておくことにもひょっとすると意味があるかもしれない。
内山興正と言ってもご存知ない方も多いかもしれないが、一九一二年に生まれ一九九八年に亡くなった二〇世紀の日本の禅僧である。著書も多いが、ここで主として取り上げるのは、最もポピュラーな『坐禅の意味と実際―生命の実物を生きる』(大法輪閣)である。これはもともとは『生命の実物―坐禅の実際』という題名で一九七一年に出版され、英独仏伊語に翻訳もされ、海外でもよく読まれた古典的著作である。
取り上げるのは、この本の第四章の「一、尽一切自己」と「三、覚めて生きる」の二箇所なのだが、この二箇所は、同じ本のごく近接した場所にあるにもかかわらず、どう読んでも矛盾したことが言われているようにしか読めないのである。
「尽一切自己」の箇所で語られているのは、和尚さんが喧嘩しているカボチャたちに向かって、まずは「みんな坐禅しろ」と言う、というところから始まる喩え話である。みんなが落ち着いたところで、和尚さんは実はみんなが一本の蔓につながっていることを教える。するとカボチャたちは「やあ、これは不思議。じつはみんなつながっていて、たった一つの生命を生きていたんだ。それなのに喧嘩するなんて大間違いだった」(傍点原文)と覚るという簡単なお話である。著者内山興正はここで、これと同じように「生きとし生けるもの、在りてあるものは、すべてぶっつづきの一つの大きな生命の力を生きているのだ」、と言う。また、坐禅によって「思いを手放しにし、思い以上のところに働く生命の実物を覚触するときには、生きとし生けるもの、在りてあるものとぶっつづき、一切不二(二つに分かれる以前)の生命を生きている自己を見出」すのだ、とも言う。
しかし、少し読み進んで「覚めて生きる」にいたると、冒頭からこんなことが言われている。「坐禅がわれわれに覚めさせる尽一切自己とは、要するに、「見渡すかぎり自己の生命を生きるのみであって、ここには他者というものがなく、それゆえ、どっちへどうころんでも自己ぎりの自己の生命を生きるのだ」という態度そのものでなければならない…」と。まずは「他者というものがなく」でちょっと驚くが、次に出てくる「自己ぎりの自己」とは内山の独特の表現で、この「ぎり」は「一人っきり」などと言うときの「きり」、すなわち「だけ」「のみ」「only」の意味である。するとこれは「ぶっつづき」と正反対ではないのか!
ここを無理して、すべてがぶっつづいているから自分だけしかいないのと同じことだと言っているのだろう、と理解して読み進めてみても、さらにこんなことが書かれている。「たとえばこのコップを、私とあなたが見る場合、ふつうわれわれは同一のコップを見ていると思っているわけですが、真実のナマの生命体験としては決してそうではありません。私は私の角度から、私の視力をもって見ているのだし、あなたはあなたの角度からあなたの視力をもって見ているのであって、絶対お互いに、その現ナマの生命体験を交換することもできなければ、知り合うこともできない…」と。「見る」場合が例になっているが、それだけでなくすべての感覚知覚、思考、等もすべて同じであると言われ、そして結局、われわれ人間は「現ナマの生命体験としてはまったく異なった世界に住み、おのおの自己ぎりの自己の世界を生きているのだといわなければ」ならないと主張されることになる。ここでは、他者とのつながりのほうは、「他者との取引」と言われて(金銭によるそれが引き合いに出されて)きわめて否定的に評価されているのである。
次いで同じことが、「自己」を「現在」に、「他者」を「過去と未来」に置き換えて、時間についても言われる。「あるのはただ一瞬の現在だけであって、過去も未来も、この一瞬の現在の中に思い浮かべられている内容、風景、状況でしか」ない、と。
ここにいたると、「生きとし生けるものはすべてぶっつづき」という主張との矛盾・対立は明らかであるように思えてくる。つまり、ぶっつづきとぶったぎれ、この二つの正反対の思想が同じ本のごく近い箇所で続けて主張されているわけである。これはどういうことであろうか。
今度は『進みと安らい』(柏樹社、一九六九年)という別著に載っている、著者自作の「自己曼画」を使って考えてみよう。第一図が、「覚めて生きる」の箇所で言われていた「自己ぎりの自己」の例解であることは明白だろう。では、第二図と第三図は? 頭頂部を貫く太い線は、一見、カボチャの蔓に似ているが、ここではそれは「コトバによって通じ合う」ことを意味しており、先ほどは(金銭によるそれが例示されて)否定的に評価された「他者との取引」に対応しているのである。
その箇所の本文にはこう書かれている。「この世界ではただ通じ合うだけではなく、ヤリトリ、貸し借りはもちろんのこと、大小、多少、よしあし、好き嫌い、勝ち敗け、正不正などの比較分別までできるようになります。それというのはこの世界は、ことばが展開した世界ですから、結局コトバの構造がそのままこの世界の構造となるのです」(一四七頁)。「この通じ合う世界は同時に価値の世界でもあります。これに反し、第一図のような、人と貸し借り、ヤリトリなし、まったく通じ合うことのない、「自己ぎりの自己」のところには、分別も比較も価値もあることはありません」(一四八~一四九頁)。内山が後者のほうを肯定的に評価していることはもはや言うまでもないだろう。
しかし、そうだとすると、カボチャの蔓の喩え話はどうなっただろうか。「自己曼画」はこの後、第四図としてコトバとアタマが作り出す妄想・煩悩の世界が提示され、最後に、坐禅によってそれを妄想と自覚する第五図、さらに第六図の世界が提示されて終わる。だがそれは、結局、第一図の「自己ぎりの自己」の状態に戻っただけで、カボチャの蔓が象徴していた「ぶっつづきの一つの大きな生命」の話はもはや登場しない。コトバや金銭による繋がりとは別の、あの蔓が象徴するつながりはどこから生じるのだろうか。
ところで、本文では第五図の説明として、「この「自己」はさきにいったような、アタマの展開した舞台のうえに、わが生命をただその一員として投げこんでしまっている「たんなる人間としての自分」とは区別しておかねばなりません」(一九〇~一九一頁、傍点引用者)と言われている。この状態の自己が、コトバとアタマが作り出した、ヤリトリ・貸し借り・好き嫌い・勝ち負け…の世界にもはやいないのは、ある意味では自明なことだとも言えるが、そもそもそんなことが言える根拠はどこにあるのだろうか。先ほど自己との類比として引き合いに出されていた現在についての記述がそのヒントになるだろう。「あるのはただ一瞬の現在だけであって、過去も未来も、この一瞬の現在の中に思い浮かべられている内容、風景、状況でしか」ないとは、どういうことであろうか。
実は現在だけしか存在していない、ということであろう。われわれは諸々の時点のうちから現在という時点を識別するのに苦労することはない。それどころか、いつが現在であるかを決して間違えない。なぜだろうか。実は現在しか存在しないから、間違いようがないのである。同様に、われわれは諸々の人間のうちから自分を識別するのに苦労することもない。それどころか、どれが自分であるかを決して間違えない。なぜだろうか。実は自分しか存在しないからである。存在しているのはすべて自分である。自分の知覚、自分の記憶、自分の欲求、等々。まさに自己ぎりの自己を生きている。
現在とは特定の時点ではなく、自分とは特定の人間ではないのだ。だから、われわれは現在を他の時点から識別する際にも、自分を他者たちから識別する際にも、それが他の時点や他の人間と内容的にどう違うかという基準をまったく使わない。どんなことが起こっているかに関係なく現在は端的に現在であり、どんな人であるかに関係なく私は端的に私である。諸々の時点のうちこの時点が現在であることにはいかなる根拠もなく、もろもろの人間のうちこの人が私であることにはいかなる根拠もない。出来事どうしの繋がりには多くの因果的連関があるが、ある出来事がなぜか現在であることはいかなる因果連関からも独立であり、ある人がある性質や状態にあること(自分を意識していたり、身長一八七センチであったり、鬱状態にあったり、縮れ毛であったり、…)には因果的根拠があるが、ある人がなぜか(他人ではなく)私であることにはいかなる因果的根拠もない。伝統的な仏教用語を使って、因果的に条件づけられていることを有為と呼び、条件づけられていないことを無為と呼ぶなら、ある時点が現在であることも、ある人が私であることも、無為なのである。
とは言っても、いわゆる「自我」を有為の代表のように見て、無我説を主張することが間違っているというわけではない。なぜなら、「自我」とは、「アタマの展開した舞台のうえに、わが生命をただその一員として投げこ」み、「たんなる人間としての自分」にしてしまったときに、すなわち、自分をその内容によって捉えて他者たちと比較可能な(「よしあし、好き嫌い、勝ち負け、…」)者とみなしてしまったときに、はじめて成立するものだからである。
で、カボチャの蔓はどこにあるのか。カボチャとは違って、コトバとアタマによって共通世界を構築しているわれわれは、そのままで自然の蔓でつながることはできない。それでも、コトバや金銭によるつながりとは別のルートがないわけではないだろう。
テーラワーダ仏教の伝統には「生きとし生けるものが幸せでありますように」等と唱える「慈悲の瞑想」というものがあり、冒頭で触れた鼎談は実は二回目なのだが、その一回目からこの瞑想の評価をめぐって意見の違いがあった(この意見の違いは、藤田一照・山下良道『アップデートする仏教』幻冬舎・一五一~一五二頁に表われているので、興味のある方は参照されたい)。私が注目したのは、他の瞑想(や坐禅)とは異なり、これは言葉を使ってしかできないこと、しかしその言葉の質は普通のヤリトリの言葉とはまったく違うこと、であった。私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、先ほど述べた意味での無為なる存在が、他の無為なる存在に呼びかける、いわば超越者に対する祈りの言葉なのである。そして、おそらくはそれが、たぶんそれだけが、われわれの場合の蔓なのである。
●初出:『añjali』(アンジャリ)』第30号(親鸞仏教センター(真宗大谷派)[刊]、2015年)
永井 均 (ながい・ひとし)
1951年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程単位取得。哲学・倫理学を専攻。現在、日本大学文理学部哲学科教授。著書に『倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦』
(ちくま学芸文庫)、『哲学の賑やかな呟き』『哲学の密かな闘い』(以上、ぷねうま舎)、『子どものための哲学対話』(共著、講談社文庫)、『哲おじさんと学くん』(日経プレミアシリーズ)、『私・今・そして神―開闢の哲学』(講談社現代新書)、『存在と時間 哲学探究1』(文藝春秋)、『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』(春秋社)、『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(岩波現代文庫)など多数。