「私の病とマインドフルネス」をWEBサンガに載せてもらった後で、それを読んだ方からメッセージが届きましたと、担当の五十嵐さんが伝えてくれた。その方が最近お父さんを亡くされたことと「病の中で、感謝で生きてなさる。早くにお父様もなくされ、投げかけてくれたメッセージに感謝です」ということが書かれていた。そうやって受けとっていただけたことに感謝が湧いてくると同時に、父を亡くした時の話も語りたいという気持ちになった。
プラムヴィレッジの教えに出会った時に、私は自分が父を亡くして以来探していたものに出会ったと感じた。
私の父が亡くなったのは私が13歳になる前の春のことだった。それは風薫る5月で、私は中学1年生。新緑が美しい季節だった。
父が倒れたのは私が小学校6年生の冬で、会社で倒れて救急車に運ばれたという話を家に帰ったら母に聞かされた。「でも、胆石という病気で治る病気だから大丈夫だよ」と言われて、小学生だった私はそのまま素直に信じていた。父の病気は回復して、すぐに治るのだと。
父は病院から出てきた後自宅療養になった。今まで畳の布団で寝ていたところにベッドが持ち込まれた。私は今まで1人で寝ていたのに、4歳下の妹と一緒の部屋で寝なければいけないことになったことに不満を持っていた。「せっかく静かに一人で寝てたのに、お父さんがベッドで寝ることになったから、妹と一緒の部屋で寝なければいけなくて、ゆっくり寝られなくなった」と。
父が家にいるのは嬉しかった。私はお父さん子だった。小学生の頃は父が家を出る時には、玄関まで送り、その後窓から見えなくなるまで見送って、最後は「いってらっしゃい!」と大きな声で父を送り出していた。小学五年生の時に骨折して入院した病院で、高齢のおばあさんたちに囲まれていた時に、何を話していいのか分からなくて戸惑っていたのだけれど、父がお見舞いに来た時に「似てるわね。素敵なお父さんね」と言われて嬉しかったのを覚えている。(普段は母に似てると言われても、父に似ていると言われることはほとんどなかった。)
穏やかな人で怒ったところというのをほとんど見たことがなかった。山登りと囲碁とマラソンが好きだった。私は小さなころ父に子守唄を歌ってもらうのが好きだった。子どもとよく遊んでくれた。物を作るのが得意で、私が好きだったシルバニアファミリーのための家も作ってくれた。毎日、父が帰ってくるのを楽しみにしていた。努力家で、倒れるちょっと前には、社会労務士になるための勉強を朝5時に起きていていた。私も一緒に早起きして、父の隣で勉強するのが好きだった。朝一緒に外に走りに行っていたこともあった。
4月になって、私が中学生になって間もなく、夜中に寝ていたら救急車の音が近づいてきた。私は寝ぼけながら「うるさいな…」と思っていると、その音はどんどん大きくなって、家の前で止まった。玄関が開いて、救急隊の人が入ってくる。大きな声がする。部屋の扉を開けると、そこには意識を失っている父がいて、玄関から運び出されるところだった。
母はそのまま病院へ行き、家にはおばあちゃんがご飯を作りに来てくれた。父は入院することになった。
入院した後、母にその週の日曜日にお父さんのお見舞いに行こうと言われた。私は部活に入りたての1年生で、部活には怖い先輩がいた。日曜日は練習試合でみんな行かなくてはいけないのに、さぼったと思われたらどんな風にしかられるかわからない。「部活があるから私は行けない」と母に言った。すると、母が怒って「あんたは自分のお父さんと部活とどっちが大事なの!?」と泣いていた。そして、「もう分かってるかもしれないけど、お父さんは胆石じゃないの。肝臓がんで、余命はあと一か月なの」と言われた。
そんなこと、思いもしないことだった。いきなり、余命が1か月なのだと知らされた。そんなの思いもよらなかった。父がもうすぐ死ぬなんて考えたこともなかった。病気になったら治るものなんだと、信じて疑わなかった。よく、理解できなかった。父が死ぬ?1か月で?そんなことが本当に起こるのだろうか。
学校までの道のりで、いつも一緒に登校している友達と一緒に歩きながら、いつも通りに話をすることができなかった。どうしてもそのまま何もなかったように話し続けることができなかったので、「お父さんが癌で、余命が一か月って言われたんだ」と友達に話した。友だちは「そう…」と言った後、何と言ったらいいか分からずに戸惑っていたことをよく覚えている。「相手を気まずい思いにさせてしまうから、その話をしなければよかったな」と私は思っていた。
私は、人生で初めて神様に祈っていた。心から祈っていた。「どうかお父さんを助けてください」と。神様に何かを祈ったことなんてそれまでなかった。「どうか、良い子になるので、お父さんを助けてください。妹と一緒の部屋で寝るのも文句を言いませんから、助けてください」とお祈りした。でも、願いは届かなかった。
お医者さんが余命宣告をしていた通りに1か月後の5月26日に、父は亡くなった。
父が亡くなる3日前には、父の意識がなくなった。母に「生きているお父さんと会えるのはもう最後かもしれないから、病院に行こう」と言われた。
病院に着くと意識不明の父がベッドに横たわっていた。近くに伯父さんと叔母さんもいた。私は父の手を握った。その手は温かかった。「私は、この手の温かさを一生忘れない」と思った。そして、今でも覚えている。父の手が温かかったことを。
父自身には最期まで癌だということは知らされていなかった。今ではインフォームドコンセントという言葉が広がり、本人に病気を伝えるようになっているけれど、その当時は本人ではなく家族にのみ知らされた。
母は「本人に伝えてもいいですか?」とお医者さんに聞いたそうだが、「やめた方がいい」と言われた。本人に伝えたら、気持ちが落ち込んで寿命が縮んでしまう、と。どんなに気持ちの強く見える人でも落ち込んでしまうし、それを受け入れて乗り越えるまでには時間がどうしてもかかる。旦那さんには、それだけの時間が残されていません、と。
だから、病室で父に「本当は癌なんじゃないか?」と聞かれた時にも「そんなことないわよ」と母は嘘をつかなければならなかった。だから私たちも知らないふりをして父に会いに行った。私は新しいカメラを買って、「新しいカメラを買ったから、写真を撮ろう」と言って写真を撮った。顔色がすでに悪くて、目は黄色くなった父がそこにはいた。
でも、今でも思う。父が自分が間もなく死んでいくということを知っていたら、なんという言葉を残していたのだろうか、と。知らせることと知らせないことはどちらがよかったのだろうか、と。それは一生答えの見つからない問い。でもきっと、これからも問い続ける問い。死んでいった父の、語られなかった言葉。
父が亡くなった。私にとって、世界で一番大切な人が。私はその時、そのことをどうやって受け止めたらいいのか分からなかった。(つづく)
「私の病とマインドフルネスその1」は【コチラ】
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