サラナ サラナ

 

じんくみ 
コロナウィルス騒動の中での私のマインドフルネス その2
facebook twitter

世界中がコロナ禍

「コロナウィルス騒動の中での私のマインドフルネスその1」は【コチラ】

 

4月4日にテレビでニュースを見ていたら、コロナウィルス関連のニュースが次々と流れてくる。エクアドルでは病院にコロナウィルスの患者が入ることもできなくて道端で亡くなっている。ニューヨークでもどんどん感染が拡大している話。東京でも駅でタッチパネルを通して感染した人がいるという。

 

なんだか、耳の下のあたりに違和感を感じている。自分の手足にピリピリしびれる感じがある。自分の中の不安が大きくなっていることに気がつく。

 

とりあえず呼吸に意識を向けようとする。入ってくる息と出ていく息に集中しようとした。でも、「今は呼吸に戻っているよりもこっちなんだよ!」と自分の中の怖れに呼ばれているような気がした。

 

「わかった、わかった」と自分の意識に怖れを向けることにする。私の中の怖れが私を呼んでいる。「怖れがあるんだね。わかった。オッケー、一緒にいよう」とただ、怖れと一緒にいる。

 

だんだん落ち着いてくる。そして呼吸に意識を向ける。お腹に手を当てて自分が木になっていること、自分のお腹が幹の太い部分であることをイメージする。大きな嵐がやってきた時に、小枝の部分と葉っぱは揺れても、太い幹の部分は揺るぎなくそこにある。自分自身の中の太い幹と根っこにつながることができれば大丈夫。息を吸って、息を吐いて、自分の中のゆるぎなさとつながる。

 

息を吸って、身体に気がつく。息を吐いて、力を抜く。息をただ辿るだけよりも、「はぁ」と声に出しながらため息を出す方が身体と心が楽になる感じがしたので、何回か声を出しながら息を吐いて身体の緊張をゆるめていく。しばらくそれを続ける。

 

自分の中にみつけたもの

そして、自分の奥に何があるのかを見つめる。コロナウィルスにかかると高熱は続くし、ガラスが刺さるみたいに肺が痛いと話をネットで読んで、そのような苦しい思いをすることへの怖れがある。自分が苦しんで死ぬことへの怖れがある。病気が再発するかもしれないということへの怖れもある。

 

「わかったよ、ありがとう。私を助けようとしてくれているんだよね。」と自分の心の中の怖れに語りかける。怖れは自分自身を守るために働いてくれている。私が危険な場所に身をさらして、自分の身体や命にダメージを与えることがないように。怖れに感謝をする。「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」となだめる。

 

立ち上がって、部屋の中で歩く瞑想をする。呼吸と足元の感覚に意識を向けながら一歩一歩ゆっくり歩く。

 

自分の心の安らぎを祈りながら呼吸と共に歩く。

 

「私の心が平和でありますように」

「私の心が平静さと共にありますように」

「私の心が安らぎとつながっていられますように」

「私の心が喜びも感じられますように」

「私が怖れと共にいることができますように」

 

一歩、歩くごとに、一つ祈りながら歩む。そしてその祈りを、家族や親戚、友人や職場の同僚やサンガの仲間たちに広げていく。そして、東京の人、日本の人、エクアドルの人、イタリアやスペインの人、ニューヨークの人、世界中の人々とさらに想いを広げていく。

 

一歩一歩、みんなの心と身体の平和を祈りながら自分の部屋の中をゆっくり歩いた。

 

多分100歩以上は歩いただろう。自分の中の穏やかさが戻ってきていることに気がつく。祈りの力が私を助けてくれた。祈ることって、誰よりも自分のためなんだな、と思う。祈ることによって自分の気持ちがずいぶん助けられた。

 

でも、だからといって怖れの気持ちがまったくなくなった訳ではない。自分の怖れはまだある。それでも、怖れに対しても「そこにいて良いんだよ」と言う。怖れの気持ちを「なんとかする」必要はない。そこにただ一緒にいればいいだけ。怖れがそこにあっても、「そこにいていいんだよ」と居場所をあげたら、穏やかさや安らぎも自分の中で共存できるんだな、ということが分かる。自分の中の心のスペースが広がって不安な気持ちが喜んでいる気がした。「これは良い感情」「これはダメな感情」って差別しなければ、みんな一緒に共存して私の中にいることができるんだな、と実感。

 

こんなに怖れがふくらんだのは、怖れを煽るようなニュースを自分の中にたくさん入れていたからだな、と思う。世界で起こっていることや日本でのニュースを熱心に見ていた。知らず知らずに怖れを自分の中で蓄積させていたのだと思う。何を自分の中に入れるのか、もっと意識的に選択する必要があるな、と気づく。

 

3月の教員生活「卒業生だけの卒業式」

昨日までは怖れが自分の中で大きくなることはあまりなかった。休校になってから1か月ちょっと。在宅勤務の後に近所を散歩したりして自分なりの楽しみを見つけていた。お花見はできないけれど、近所の公園で散りゆく桜などを静かに見つめて楽しんでいた。鳥の声や、春の花々に気づいて嬉しくなっていた。

3月の半ばには保護者も在校生もいない卒業式をやった。「こんなことになってしまって残念だったね」と生徒に言ったら「こんな中で卒業式ができるだけでもありがたいです」と言っていた。大人になって去っていくのだなとしみじみ思った。

 

終業式に自分の学年の生徒たちに久しぶりに会った。生徒に会えることが本当に嬉しかった。終業式は体育館ではなく教室で、学年ごとに時間をずらしてクラスを半分に分けて席を空けて放送で行う。異動になる先生のことも放送で流れる。いつもは離任式があって、感動的な話があるのに、それもない。日常にある「当たり前」がいかに貴重だったかということを改めて感じさせられる。

 

3月は卒業式と、終業式以外は、ずっと生徒のいない毎日だった。在宅勤務の日もあるけれども、成績に関する会議などで、どうしても学校に行かなくてはいけないものもある。学校に行くと、少なからぬ先生たちが来ている。先生たちだけでなく、お掃除の人もいる。

 

ゴミ箱にゴミを捨てるときに考えてしまう。「このゴミは誰が片づけるのだろうか?」と。ゴミ掃除のために仕事に行くことは「不要不急」の用事ではないと本当に言えるのか?このゴミを片づけるのはどんな人なんだろうか?ゴミ箱がいっぱいになった時に片づける人がいなかったら困ってしまう。ゴミを回収してくれる人がいなくても困る。でも、その人たちは自分の身を危険にさらしてゴミを捨てるための仕事をしていて本当に大丈夫で、その人たちにその仕事をさせていていいんだろうか?と考える。

 

廊下を歩いていると、掃除の人とすれ違う。挨拶をして、通り過ぎながら考える。「この人はここに来ていて大丈夫なのだろうか?家族はいるのだろうか?家族は心配していないだろうか?今働かないと金銭的に非常に苦しいんだろうか?」今までお掃除の業者の人の人生についてこんなに考えたことはなかった。コロナウィルスが教えてくれる。私たちは様々なものとつながりあって生きているということを。インタービーイング(相互存在)を今まで以上に感じる。それぞれの人が誰かに支えられながら生きていて、それぞれの人にまたつながりのある人たちがいること。コロナウィルスのことがなかったらここまで分からなかった。

 

4月の教員生活「オンラインで授業やミーティング」

4月からは教職員も在宅勤務が主となり、オンライン授業やオンラインの先生同士のミーティングを行っている。最初の授業の時に、5分間ぐらいだけ一緒に瞑想をした。呼吸をしながら、心を穏やかにすること、距離は離れていても心はつながっていることを感じることのための時間を取った。呼吸が距離を超えて、私たちをつなげてくれる。「温かい気持ちになった」と生徒が言う。私もだよ。オンラインではできないこともある。ただ、隣にいてくれるのとはやっぱり違う。でも、それでもできることもある。

 

仕事が終わると近所を散歩する。今まではただ通り過ぎていた場所に、様々な春の花が咲いていることを見つける。春ってこんなにたくさんの花が咲いていて、香りを放ち、色鮮やかに輝いていたんだなぁ。私は「忙しい」と言ってその横をただ通り過ぎていたんだなぁ、としみじみ感じる。今まで知らず知らずにもったいないことをしていたのだと気がつく。近所の家に、こんなに花があったなんて知らなかった。小学生以来に、近所の様々な道を、目的もなくただ歩く。一歩一歩を味わいながら呼吸と共に歩く。生きている喜びとつながる。

 

「怖れ」や「不安」との付き合い方

世の中でどんどん怖れが拡大していることをニュースを通して感じる。まだ営業している店に嫌がらせの紙が貼られたり、デマがあっという間に広まったりする。その奥にある怖れと不安を見つめる。

 

怖れと不安は、私たちを生かそうとしてくれている。危険を避けて、より安全にさせようとする。怖れがあるから、外出を控えて、帰ってきたら手を洗って、人との接触を避ける。怖れの気持ちが私たちに安全な行動を取らせてくれる。私たちの命を守るための働き。

 

でも、怖れが大きすぎると、人を攻撃してしまう。自分の「安全」が脅かされているように感じて、その安全を脅かそうとする人を敵だとみなして攻撃してしまう。

 

「そんなことをしたら危険じゃないか!」という怖れが自分の中にあったら、人を攻撃する前にまずは自分の怖れと一緒にいてほしい。人を攻撃する前に「私の命を守ろうとしてくれてありがとうね」と語りかけてほしい。自分の怖れに感謝して、まっすぐな目で見極めてほしい。やった方が良いことと、やらない方が良いこと。言った方が良いことと、言わない方がいいこと。それは、思いやりの気持ちを増やすのか、それとも苦しみを大きくするのか。

 

今の世の中で起こっていることを見ていると、自分の中の怖れを見ないで人を攻撃しているのではないかと思えて残念に感じる。それが誰かを苦しめているし、人を責めている人だって楽にはならないだろうと思う。人を責めて得られる安心感はごく一時的なもので、安定しないと思う。自分自身の不安や怖れなどの苦しみを見つめることの大切さが今以上に増している時はないように感じる。

 

“The way out is in.”(そこから出ていくための道は自分の中にある)というタイ(ティック・ナット・ハン師の言葉がある)怖れの対象は、外にあるのではなく、自分が作り出している。怖れを感じた時、誰かを責める代わりに、自分の内側を見つめてほしい。そして誰かを「変えよう」として変えることはできない。人々の怖れが大きくなっていくなかで、自分にできる一番のことは、自分の内側を整えて、自分が穏やかでいることなのではないかと思う。

 

呼吸を感じて、自分自身という”home”に戻っていきたい。身体と心を合わせて、そこで安らぎたい。自分と人の心と身体の安らぎと平和を祈りたい。それが私の”Stay Home”

 

じんくみさんの連載「私の病とマインドフルネス」

「私の病とマインドフルネスその1」は【コチラ】

「私の病とマインドフルネスその2」は【コチラ】

「私の病とマインドフルネスその3」は【コチラ】

「私の病とマインドフルネスその4」は【コチラ】

「私の病とマインドフルネスその5」は【コチラ】

「私の病とマインドフルネスその6」は【コチラ】

「私の病とマインドフルネス番外編」は【コチラ】

 

 

 

プラムヴィレッジ関連書籍のご購入は→→【コチラ

サンガジャパン Vol.35(2020spring)特集「食べるーー食と心の健康」

私と世界を幸福で満たす食べ方・生き方怒り怖れ和解ブッダの幸せの瞑想【第二版】今このとき、すばらしいこのときティク・ナット・ハンのマインドフルの教え奇跡をひらくマインドフルネスの旅