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ティク・ナット・ハンの軌跡 その3「ベトナム仏教とハン師~はじめての仏教共同体の建設」
ベトナム仏教の伝統とハン師

ベトナム戦争について書いた『火の海の中の蓮華』のオリジナル版に使われたポートレート。30歳前後のティク・ナット・ハン師。
ここでベトナム仏教の特徴についても触れておかねばならない。
ベトナムに仏教が伝来したのは、2世紀前後と言われている。
ペルシャ出身の交易商としてインド経由でベトナムにわたってきた両親のもとに生まれた康僧会(クォン・タン・ホイ)が、3世紀後半、初期仏教の瞑想の根本経典である入息出息念経(アーナーパーナサティ・スッタ=安般守意経)と禅(南伝)の瞑想法とをもたらした。
その後派生した禅派は13世紀に竹林派として統合され興隆するが、17世紀前後に流入してきた中国からの臨済、曹洞、蓮の各派や、それ以前から浸透していた浄土宗、密宗とも共存しながら、ベトナムに古代から存在したアミニズムを含めて独自の混淆を見せる。
ユニークなのは、インド由来の南方禅、中国由来の大乗禅と、浄土教との統合であろう。
現在ベトナム禅宗柳館派8世の法嗣(同時に臨済正宗竹林派42世法嗣)であるハン師が、入息出息念経や四念処経をベースとした上座部系の瞑想法を重んじながら、それを空や仏性といった大乗的な立脚点から修するという実践は、このようなベトナム仏教史の伝統の上にあることは明らかである。(さらに心理学や哲学など、西洋から学んだ智慧も統合されていった)
行動する仏教への困難な船出
1949年、23歳のときタイは具足戒を受け僧となる。当時ベトナム民主共和国は、フランスからの完全独立を勝ち取るための第一次インドシナ戦争のまっただ中にあった。
ソ連や中国から後押しされたその抗戦はベトナム戦争の前触れであり、社会は長引く戦禍によって混乱し、苦しみに満ちていた。そうした中で、僧院に籠り伝統の枠に依ってのみ修行を続けることに疑問を抱いていたタイは、社会的な活動に向かって踏み出していく。正規の出家直後のことであった。
ベトナムでは1930年代からすでに、若い世代の僧侶を中心とした仏教改革運動が始まっていた。タイの志は必然的にそれらの仲間たちと合流するものになった。
1940年代中ごろ、20歳前にすでに「今日の仏教(Buddhism of Today)」を上梓し、20代終わりまでに数冊の本を世に出していたタイは、 1950年に入ると仲間を誘って自ら禅道場を創設し、ベトナムで初めて外国語、科学、哲学など西洋の教育をとりいれた新たな修行を実践し始める。
同時に仏教の変革に向かってのラディカルな試みを開始した。すべてが無常である真理に漏れず、本来仏教も変化を続ける世界とともに変わり現代化しなければならない、それが彼の主張であった。
師のもとで本格的な修行ができない一般人でも可能な実践のありかた。日々の生活に直接かかわる仏教の実践が、とりわけ戦時下の荒れ果てた物理的・精神的環境の中では必要とされていた。
彼はこのころの著作の中で、「修行者が他者の苦しみをやわらげるためには、まずその時代の苦しみをじかに体験しなければならない」と記している。ここにタイが中心的な創始者のひとりといわれる『行動する仏教』の萌芽が見られる。
1950年代の彼は、このヴィジョンを具体化する活動にまい進した。
全ベトナム仏教徒協会AVBA(のちのベトナム統一仏教教会UBCVとは別の組織)の機関紙「ベトナム仏教」の第2号、「季節の初めに咲く蓮の花」の編集主幹を務める。
このころからタイの執筆活動は旺盛になり、編集のかたわら新聞に投稿し、単行本を作り、人道的な統一仏教教会を立ち上げることに腐心していた。
さらにサイゴン市内のアン・クワン(印光)寺の創立に共同で着手した。1954年から61年にかけては同寺で指導も行っている。しかしこれらの活動のほとんどすべてが、仏教界内部と政界など外部からの抵抗にあった。
機関紙は2年足らずで差し止めの憂き目にあい、彼ら志を同じくする若い僧たちは、地方の小さな寺に隠れ住むことになる。しかしあらゆる寺が体制の傘下にある以上、改革運動には頓挫せざるを得ない運命が待ち受けていた。
はじめての仏教共同体の建設
1954年7月ジュネーブ休戦協定により、ベトナムの国土は北緯17度線で南北に分割され、北で社会主義化が促進する一方で、南ではゴ・ディン・ジエム政権が施政に失敗して社会不安が増大した。1960年南ベトナム解放民族戦線結成。さらに大きな戦争が目前に迫っていた。
タイは活動の窮状を尊敬する尼僧ジェウ・アムに訴えているが、彼女は応えて自分が修行するプラム・フォレスト(すももの森)を提供しようと申し出た。この案は実現しなかったが、彼らは新たに建設することになる山の僧院へ渡る橋に「プラム・ブリッジ」と名づける。当時から現在まで、タイの拠点にプラムの縁が続くような不思議を覚えるエピソードである。
1957年秋、タイはグエン・フンやトゥエ、タィン・トゥといった仲間とともに、サイゴン近郊の山間部の急峻な土地にある「ダイ・ラオの森」に、実験的仏教共同体を建設し移住する。『フォン・ボイ(香しき椰子の葉)』と名づけられた僧院は、手づくりの庵と切り開いた森の農地から成る、名の通り息を飲むように美しい彼らの第2の故郷となった。
彼らは生活のために開墾した土地で茶を栽培し、タイは本を書いてその印税をコミュニティのために使った。出稼ぎに行く仲間もあり、協力者からの布施も大きな支えになった。
初期の代表作「禅への道 香しき椰子の葉よ*7」(1950年代後半から60年代半ばまでの日記)の中でタイは、フォン・ボイの大自然と共同生活の様子を、詩的で優美な筆致であますところなく描いている。
本書には、激しさを増す体制の弾圧と、その中で特別研究員として渡米、即時停戦のための奔走、相次ぐ仲間の死や、最後には自身の亡命など激動の時期がしるされている。これは戦乱のさなかでも透徹した慈悲の眼差しを失うことがなかったタイの長大な叙事詩であり、珠玉の1冊である。
このころの生活について、こう書かれている。
「フォン・ボイに移り住んでからも、私たちの積極的な行動主義は失速することはありませんでした。来る日も来る日も森を開墾し、詩を吟じ、生活を楽しみ、多くの時間を学修に割き、議論を交わし、新しい『行動する仏教」(Engaged Buddhism)理論を構築していきました」(同書)
*7 『禅への道 香しき椰子の葉よ』(春秋社 2005)
執筆:島田啓介(ゆとり家)
(つづく)その4
本記事は、『サンガジャパン19号』からの引用です。

サンガジャパンvol.19「ティク・ナット・ハンとマインドフルネス」