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ティク・ナット・ハンの軌跡その5「激化する戦争と緊迫する情勢~ベトナムでの平和活動の組織化と実践」
第2部
ベトナム戦争のなかエンゲージド・ブディズムへ(1962~1966)
激化する戦争と緊迫する情勢
タイのアメリカ滞在中、ベトナムの情勢はますます深刻化していた。1963年6月11日、エスカレートする一方の弾圧に対して、サイゴンの路上でクアン・ドック師による焼身供養の抗議が行われた。
「クアン・ドック師は、他者を覚醒せしめるために無条件で喜んで自身を犠牲にするという心を、身をもって表明されたのです」、タイはこう発言している*12。
これを機に仏教徒の犠牲による抗議が相次ぎ、反体制運動は激化し、フーン(のちのチャン・コン)の身にも拘束の危機が迫るようになる。実際彼女は発禁図書所持の罪で数日拘束され、タイ自身も「ラジオでハノイ放送を聴いた」というだけで拘束を受けたことがある。
タイはこの年、新聞やテレビのインタビューに積極的に応じ、ベトナムの戦争終結を訴えた。その一方自国で行われている深刻な人権侵害の事実を英訳し、国連に提出する。
アメリカ仏教協会の支援により、公開の5日間断食も行った。祖国への平和活動の支援呼びかけと義援金集めの旅を重ね、タイの体力は限界に達していた。
こうした活動を受けて国連は、ベトナムへ人権調査団を派遣することを決定した。
同年11月、ジエム政権はクーデターに倒れ、ゴ・ディン・ジエムは暗殺される。新たな混乱が始まっていた。これを期に、かつてタイの改革運動に反対して彼を寺院から追放した長老が、仏教界立て直しのためにタイの緊急帰国を要請する。
この時期フーンはフランスの大学から招かれ、研究生活のいっぽうでベトナムの和平を訴えていた。在米中のタイは、言論が統制されていたベトナムよりもフランスのフーンからより詳しい情報を得ていた。
仏教界の長老からの帰国要請についてフーンからのアドバイスを欲したタイは、彼女をニューヨークに招き、話し合ったすえ要請受け入れを決意する。その帰路フランスに立ち寄った彼は、フーンの仲間たちと交流し講演を行っている。
*12『ラブ イン アクション』(渓声社 1995)より
ベトナムでの平和活動の組織化と実践
1963年12月、帰国するとすぐに彼は、結成されたばかりのベトナム統一仏教教会(UBCV)に「三項目の提案書」を提出した。
1・敵対行為の即時停止
2・政治リーダーたちを教育するための仏教にもとづく教育機関の設立
3・非暴力的社会改革を助けるソーシャルワーカー養成のセンターの設立
である。このとき受け入れられた唯一の要求は、2の仏教研究のための高等教育機関のみであったが、それがのちのヴァン・ハン仏教大学になる。
仏教界からの支援は非常に限定的であったため、タイは仲間たちとまず数か所の実験村を設立し、それらを「自助村」と呼んだ。社会改革の草の根モデルとする構想であった。
そこでは医療と教育を柱に、村民みずからが知識や技術を身に着け、自助努力によって地域発展を促進させる。タイの仲間や弟子たちがそれぞれの村に住み込み、指導援助を行った。
農業技術や公衆衛生の伝達も必須であった。この活動の実績を認めたUBCVは、資金援助までには至らなかったが後方支援を約束する。これが発展してやがて社会福祉青年学校(SYSS)になる。
1964年に設立された教育機関は、タイが多くの学者を呼び集めることによって、ヴァン・ハン(万行)仏教大学へと結実する。学長にトゥリ・トゥ師、副学長にミン・チャウ師、事務局長にトゥリン・サム氏を迎えた。ベトナムで初めて西洋式の教育を取り入れたこの大学設立に要した時間は、たったの14か月だったという。
1965年9月、タイたちはそれまでの自助村の活動をヴァン・ハン仏教大学のプログラムに取り入れ、あらためて社会福祉青年学校(SYSS)として組織しなおした。呼びかけに対する反応は予想以上で、300の仕事枠に1000以上の応募があったという。
彼らの仕事は、村の若者たちを訓練し、村人たちが自力で学校や医療センターを建築し、公衆衛生を普及し、農業や園芸を発展させる教育援助をすることであった。
タイにフランスから呼び戻されたフーンは、学業を半ばで中断し、精力的にこの仕事に取り組むようになる。彼女はサイゴン大学で教鞭を執るかたわら、人脈を生かして様々な専門家を現場に派遣した。フーンは初期のSYSSのリーダーに任命されている。
ベトナム戦争のさなかにあった村々は、度重なる爆撃で破壊されていたが、ソーシャルワーカーたちの不屈の取り組みによって何度も再建された。しかし南北どちらの陣営にも加担しない彼らの活動は、南側からは反体制のベトコンとみなされた。
彼らの救援活動は、戦禍があらゆる村に及ぶにつれ、熾烈なものとなった。タイみずからも含め仲間たちは、サイゴンから遠く離れた北部まで食料や医薬品を運び、人びととともにとどまった。
拘束される者や殺害される仲間が相次いだ。SYSSのオフィスに手りゅう弾が投げ込まれ命を落とすものもいた。タイ自身も同様に狙われたが、幸いなことに不発弾だったという。
それでも彼らは慈悲にもとづく非暴力の実践を止めることはなかった。タイ作の『戻り道の旅路は続く*13』という戯曲の中には、働きの途上川岸で撃たれ、命を落とした5人の弟子たちのことが痛切さと愛情をこめて描かれている。
タイは、SYSSの精神について書いている。
「私たちの本当の敵は、怒り、憎しみ、貪り、狂信、差別心などです。慈悲の心をもって死ぬならば、あなたはブッダの子です。許しの微笑みをたたえることができれば、死ぬときでも偉大な力を得ることができるのです」。
戦争終結までに活動にかかわった僧・尼僧、ソーシャルワーカーたちは1万人を超えたという。
1964年には、タイのふたりの弟子タン・トゥエとトゥ・マンが中心となり、リベラルな仏教系出版社「ラ・ボア」出版を設立する。ここから2年間で12冊のティク・ナット・ハンの著書、そのほかにも20冊の書籍が出版された。
現在ラ・ボアはアメリカにオフィスを移転し、タイの著作を始めとしたベトナム語の仏教書を出版し続けている。
戦時下では「平和」という言葉が共産主義と同一視され、非合法になったタイの著作は地下出版されるようになる。この時期に書かれた『火の海の中の蓮華 ベトナムは告発する』(読売新聞社1968)は、12か国語に訳出され、4万部売れたアメリカにおいてベトナム戦争についての最重要書と評された。
この時期タイは集中的に詩作にいそしみ、戦時下の自身や人びとの苦しみと、慈悲にもとづく活動、交錯する希望と絶望について、ありのままに叙述している。それらはラ・ボア出版社や地下出版を通じて多くの人びとに届けられ、慰めと力づけを与えた。
「私の詩は、一般向きの自由詩なのです(……)ベトナム人大衆は、民主主義やデモクラシーといった言葉は知らないか、どうでもよいのです。彼らはただ、自分たちが生き延びるために、戦争が終わればよいと思っているだけなのです*14」
他の書籍と同じくタイのほとんどの詩も発禁処分になったが、飛ぶように売れ、差し押さえられる前に売り切れることが多かったという。そして様々な場所で朗読され、メロディーをつけて歌われ、解放の象徴となった。
タイは、1956年釈迦生誕2500年の式典への出席のため初来日、1966年12月にベトナム戦争早期終結を訴えるために再来日している。また1970年に京都で開かれた第1回世界宗教者平和会議にも出席しており、その活動は紙上で大きく取り上げられた。
*13 前掲書所収
*14 “Call Me by my True Names The Collected Poems of Thich NhatHanh” (Parallax Press 1993)参照
執筆:島田啓介(ゆとり家)
(つづく)その6
本記事は、『サンガジャパン19号』からの引用です。
サンガジャパンvol.19「ティク・ナット・ハンとマインドフルネス」