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2017.07.21

webサンガジャパン

ティク・ナット・ハンの軌跡その6「相互存在教団の創設と再渡米から亡命へ~新天地フランスから世界へ向けて平和を発信する」

第3部 フランス亡命、スウィートポテト・コミュニティ設立(1966~1982)

相互存在教団の創設と再渡米から亡命へ

1966年、タイはSYSSのリーダーの中からフーンを含む男女3人ずつ6人を選んで在家得度し、彼らを中心に『ティプ・ヒエン(インタービーイング=相互存在)教団』を設立した。これは仏教を実践する者たちの出家・在家を問わない共同体で、こんにちまでタイの活動の中心となっている。

タイにより教団の精神的支柱として『十四の戒律*15』が定められ、仏教の教えを現代に生かす道が示された。この14か条には、行動する仏教のエッセンスがもっともよくあらわれている。

空や縁起、無我といった大乗の根本理念の現実化、独善と偏見を捨てどんな立場も不二の視点をもって受け入れること、苦しみの本質を深く見つめすべての存在の解放のために働くこと、コミュニティとして集合的に慈悲の実践をすることなどが織り込まれている。教団のメンバーには、この14か条にもとづいて行動すること、1年に最低60日間はマインドフルネスの1日をもち瞑想することが要請された。

1966年5月1日、タイは初めて出家したトゥヒュウ(慈孝)寺でチャン・タット(真実)師より法灯を授けられ、ベトナム臨済正宗柳館派の第42世法嗣となった。その翌日、アメリカ友和会(FOR)とコーネル大学からの強い要請を受けていたタイは、再渡米する。

この先年にベトナムを訪れた当時の友和会の代表A・J・ムステが、タイと出会った際ぜひアメリカに招聘したいとの意思を固めたのだ。数週間で帰国する予定だったこの旅は、結果的に数十年に及ぶ亡命生活の始まりとなった。

渡米の目的は、コーネル大学でベトナム仏教のセミナーを行い、南北ベトナムのどちらにも加担しない中立的立場で和平実現を訴えることであった。タイは戦争のルーツがアメリカにあるとみていた。

セミナーのあと、FORの有力メンバーで熱心な反戦活動家アルフレッド・ハスラーの導きでアメリカ全国ツアーを行う。この旅で多くのメディアに登場し、幾多の重要人物と出会っている。

著名な司祭・作家であるトマス・マートン、上院議員ウィリアム・フルブライト、国防長官ロバート・マクナマラ、友和会のA・J・ムステとアルフレッド・ハスラー、そして、マーチン・ルーサー・キング牧師などである。

また詩人であるタイに特記すべきことは、ニューヨークのタウンホールでの平和集会であろう。詩人ロバート・フロストや劇作家アーサー・ミラーが同壇上に登った。

タイはこのとき、「ムードラ」「平和」などの代表作を取り上げて朗読している。クリスチャン社会主義者ドロシー・デイや歌手のジョーン・バエズなどもこれに加わった。

旅の総まとめは、6月1日首都ワシントンでの記者会見で、五項目の平和の提案として結実する。ここでタイは、空爆の即時停止、政治・思想の後ろ盾のないベトナム再建援助を要請し、自らの中立的な立場を明確に表明した。

アメリカに対しては、解決を当事者であるベトナム人に委任すること、ベトナムの価値観・文化を知って理解すること、民衆に広く支持される仏教の重要性の認識を強調した。これに感銘を受けたキング牧師は、タイを1967年のノーベル平和賞に推挙した。

 

1966年、ティク・ナット・ハン師40歳のときキング牧師とともに。

 

「彼の平和へのアイディアが実践されれば、それは諸宗教統合、世界中の友愛、人間性を讃える象徴となるだろう」

しかしこの会見によって、南北どちらにも加担しないタイは、両陣営から裏切り者と決定づけられることになる。南ベトナムへの帰国はこうして閉ざされた。

SYSSはフーンを中心とした仲間たちが運営していたが、平和活動との結びつきで政権から弾圧されるのを恐れたヴァン・ハン仏教大学の学長ミン・チャウは、タイの不在中にSYSSを大学の管轄から外してしまう。さらにフーンをコミュニストとして警察に訴え、SYSSは非合法活動を余儀なくされた。

1973年まで続いたこの処遇によって、メンバーたちは大変な弾圧をこうむることになった。フーンたちはSYSSの本拠地を郊外へと移し、多くの戦争難民たちを受け入れ同居するようになる。

1967年5月16日に起こったもっとも痛切な出来事は、タイやフーンはじめすべての仲間から慕われティプ・ヒエン教団とSYSSの中心的なメンバーだった、ナット・チーマイの焼身だった。彼女はマリア像と観音像をかたわらに置き、クリスチャンと仏教徒の共働を願って自らに火を放った。

1968年の旧正月に勃発したテト攻勢では、アメリカ大使館が一時的に占拠され、戦況変化の契機となった。そのときSYSSは、11000人の難民をその敷地内に引き受けている。

*15 現在は「14のマインドフルネス・トレーニング」と言い直され、何回か改訂されている。詳しくは『ブッダの幸せの瞑想』(サンガ 2013)参照

 

新天地フランスから世界へ向けて平和を発信する

フーンはベトナム統一仏教教会(UBCV)、ヴァン・ハン仏教大学、SYSSなどベトナム国内の諸機関とタイとのつなぎ役となっていた。彼女は1968年7月23日にベトナムを発ち、すでにフランスに亡命していたタイと香港で会って国内情勢を報告した。

その結果フーンはタイのアシスタントとして働くため、日本でビザを取りフランスへと向かうことになった。こうして彼女の事実上の亡命生活が始まる。

タイの亡命生活はすでにアメリカツアーの直後、1967年にパリで始まっていた。彼は海外ベトナム仏教徒協会(OVBA)の勧めにより、ベトナム仏教徒平和代表団(VBPD)の創設にかかわる。その役割は、ベトナム国内の情勢を世界に伝えることと、難民への人道的支援を行うことであった。

タイは、1969年に彼らの宗教的母体としてフランスで統一仏教教会(UBC)を設立した(ベトナムのUBCVとは別)。これが僧院やコミュニティ建設、国際サンガの組織、出版、救援活動などすべての母体となる。

彼はフーンはじめ少数の仲間たちとパリ18区に小さなオフィスを構え、英、仏、ベトナム語の機関紙「蓮」を発刊し、ヨーロッパ中に配布した。それぞれが、仏教や数学などの臨時講師をして稼ぎながらの活動だった。

この時期に、ル・モンド誌のジャック・ドゥ・コルニーユをはじめ、多くのジャーナリストが彼らの活動に共感し協力を始める。その中でも、戦争孤児たちに里親を探す取り組みは大きな成功を治めた。

現在「第三世界の子どもたちとの分かち合い」と名を変えた活動は、フランスを代表する援助組織のひとつに成長している。ベトナム支援コンサートには、ナナ・ムスクーリ、クロード・ヌーガロ、グレアム・オーライなどの有名歌手が集結し、支援資金のチャリティを行った。

タイのアメリカツアーを指揮した友和会のアルフレッド・ハスラーは、1970年タイたちの集まるパリの小さな部屋で、戦争と、環境破壊、貧困などに同時に取り組む「ダイ・ドゥン(大同)」運動をスタートした。1972年ストックホルムでの国連の国際環境会議と同期に行われたダイ・ドゥンの会議では、世界中の環境活動家が重複して参加し、以後の環境保護活動に大きな影響を与えた。

この時期の協力者には、国際友和会の後の事務局長ジム・フォレスト、ベトナム平和活動家ダニエル・ベリガン神父など多数があり、タイたちの国際的な活動を助けた。タイは、この間何度もアメリカに招かれて平和を訴える講演をし、数々の平和活動家たちとの親交と連携を深めた。

フーンは英語を身に着け、アメリカだけでなくヨーロッパ中に講演とベトナム支援の働きかけのために駆け回った。イギリスでは高校教師たちと『ベトナムへの第三の道』を立ち上げ、寄付と多くの里親をつのることに成功している。

1973年のパリ(ベトナム和平)協定でタイは、ベトナム仏教徒首席代表を務めた。同年3月、彼らはパリ郊外のソー市でオフィス兼住居として3部屋の小さなアパートを借り、7人で共同生活を始める。

南北の統一によりベトナム社会主義共和国が設立されても、タイの帰国は拒絶されたままだった。協定のあとでも戦争状態が好転を見せないベトナムへの取り組みに疲弊して、彼らは都会パリからより落ち着ける環境を求めて転出したのである。

 

執筆:島田啓介(ゆとり家

(つづく)その7

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本記事は、『サンガジャパン19号』からの引用です。

サンガジャパンvol.19「ティク・ナット・ハンとマインドフルネス」