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ティク・ナット・ハンの軌跡その7「最初のリトリートセンターと活発化する活動」
最初のリトリートセンターと活発化する活動
パリ時代は、故郷から切り離されて異国に住むストレスと、戦争の痛み、悲しみ、トラウマに苦しめられた時期でもあった。彼らは人を助けることと同時に、みずからに滋養を与えるような時間と場所を必要としていた。
郊外の生活は喜ばしく、彼らは忙しい仕事の合間にも料理を楽しみ、歌い、詩を朗読し合った。この時期に書かれたタイの文章を多く翻訳したテキサス生まれのモビ・ウォレンは、タイの代表作でベストセラー『マインドフルの奇跡*16』をこの時期に翻訳している。
1975年、タイは11人の仲間とともに、パリの南東部150キロにある田舎町フォンヴァンヌに、スウィートポテト・コミュニティ(さつまいも共同体)を建設する。彼らはトウモロコシ畑と小麦畑に囲まれた小高い丘の上の古家と小さな農園にパリから週末ごとに通い、修繕して、そこを小さなリトリートセンターに仕上げた。
まもなく出家、一般人を問わず、多くの人びとが集ってくる。落ち着いた生活を基盤にして、「太陽わが心」「月の竹」「ベトナム仏教史」など、ここからタイの珠玉の名作が次々と生み出された。
この時期の中心的な働きは、戦争孤児の里親探しと難民(ボートピープル)支援に向けられている。ベトナム戦争終結に伴って社会主義政権が南北を統一すると、ベトナム統一仏教教会(UBCV)の口座は凍結され、SYSSは解散させられ、リーダーたちは投獄された。
社会活動のすべては政府が掌握し、それ以外は非合法とされたのである。ベトナムの仲間たちと連携して行っていたタイたちの活動も、以後非常に限定的にならざるを得なかった。
1976年に出席したシンガポールでの世界宗教者平和会議で、タイはベトナムから来た女性グループから、戦禍と圧政を逃れてアジア各地の難民キャンプに留め置きされているボートピープルの救援を訴えられる。彼らはベトナム政府に捕縛されれば収容施設に閉じこめられ、海賊からは略奪やレイプを受けていた。
シンガポールでも状況は変わらず、政府はキャンプから難民たちを海へと押し戻し、死の危険にさらそうとしていた。タイたちは2隻の船を借り受け、800人のベトナム人たちを救うプロジェクトを立ち上げた。しかし国連難民高等弁務官はこの非合法活動を禁じた。
そのほかにも彼らは、自分たち自身でボートを借り受けて海に乗り出し、漂流する人びとを安全地帯に誘導することもあった。これらはしかるべき公的組織が取り上げて支援を始めるまで続けられた。
1970年代後半には、アメリカ、オーストラリアなどが相次いで難民受け入れ数を増加させ、彼らの活動は実を結んだ。タイと仲間たちは怒りや絶望に負けないよう、相次ぐ苦境の際には必ず瞑想を徹底的に行っている。
「瞑想とは、私たちが思い出すのを助ける、ということなのです」「多くの人びとの命が、私たちのマインドフルネスにかかっていました*17」とタイは言う。
マインドフルネスによって深まった洞察力によって開示された(思い出された)のは、敵も味方も相互存在しているという真実であった。彼の代表的な詩「私を本当の名前で呼んでください」はこの時期に書かれ、こんにちに至るまで社会活動における多くの人の指針となっている。
「私たちはみんなで丘に登り、長時間歩く瞑想をしました。数時間に及ぶこともあったその瞑想を、毎日数週間続けました。美しい松の木、とうもろこし畑、空の雲、輝く陽光に触れるために」。
こうした瞑想が彼らの困難な活動を支えていたのだ。
ベトナム戦争終了後も、社会主義政権による知識階層や活動家、仏教僧などへの弾圧は続き、焼身抗議する僧侶たちも絶えなかった。しかし戦争の終了という題目に惑わされて、世界はこの事実に無関心だった。
フーンらの弾圧を告発するコラムはインターナショナル・ヘラルド・トリビューンやル・モンド、ル・フィガロなどに取り上げられ、ジム・フォレストなどの平和活動家もベトナム人権キャンペーンを始めた。この時期多くの仏教僧たちが西欧諸国へと逃れてきていたが、1977年旧知のマン・ザック師の亡命とともにベトナム人権運動はより活発になり、西洋諸国にメッセージを伝えるツアーが続いた。
*16 『〈気づき〉の奇跡』(春秋社 2014)として新たな翻訳版が再出版された。
*17 『ラブ イン アクション』(渓声社 1995)より。
執筆:島田啓介(ゆとり家)
(つづく)その8
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本記事は、『サンガジャパン19号』からの引用です。
サンガジャパンvol.19「ティク・ナット・ハンとマインドフルネス」