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2019.06.07

社長ブログ(ほぼ毎週金曜日更新)

身体と瞑想

離脱してしまった瞑想合宿

今週は、毎年実施される
スマナサーラ長老の合宿瞑想の時期だった。

僕も瞑想合宿に参加したのだが、
今回、合宿が始まったら、
すごく体調が悪くなってしまった。

今までは、たとえ参加するのが一日遅れても、
必ず最後までいたのだが、
今回はいつもと違う感じだったので、
合宿所の近くの稲取の中央病院に行ったら、
「安静が必要です」と言われた。

スマナサーラ長老はいつも
「体なんかほっときなさいよ。
どうしてそんなに身体を大事にするんですか」
と言われるので、
僕はけっこう悩んでしまった。

本当に瞑想を大事にするなら、
もしかすると、
そのまま合宿を続行すべきだったのかもしれない。

だが、医者の「安静にしなさい」という言葉に、
僕は、ビビってしまった。

そのときの体調は、それほどひどくなかったのだが、
捨てるもの――言わば「会社」や「家族」ががある僕は、
もし長期入院になんかなってしまったら、
そうとう困っちゃうなと思ってしまった。

そこで、僕は仙台に帰る決心をした。

 

葛藤する自我

残るべきか、帰るべきかの葛藤は続き、
帰った僕の中には、
もう合宿から離脱したにも関わらず、
まだ、「本当によかったのか?」という迷いが残っていた。

もし手放す生き方ができているなら、
僕は、身の危険をさらしたとしても、
修行に励んだのではないだろうか?

仙台に帰ったのは、
実は、修行をしたくないことへ
言い訳だったのではないか?

実のところ、仙台に帰っても、
僕は普通に生活をし、かつ、仕事もしていた。

凡夫の僕は、いつもあべこべの僕は、
「実は自我なんかない」といくら言われても、
自我の存在からいつも離れられないでいる。

つまり、もしかすると、
自我をよりどころにしているのである。

あべこべの世界から見ると、
「帰る」「留まる」は、けっこう問題になるのだが、
あべこべのない世界で見ると、
たぶんそんなことは、
どっちでもいいことなんだろう。

そうは言っても、
やっぱり僕には、切迫感が足りないだと思う。
たとえばこの『箭経(Sallasutta)』の3つの偈を見てほしい。

  • 591(18)
    家についた火を水で消し去るように、
    智慧に満ちた賢者、巧みな人は、湧き起こった悲しみを、
    風が綿花を吹き払うように、即座に消す。
  • 592(19)
    自分の憂い、未練、悲しみを引き抜くこと。
    自分の幸福を求める者は、刺さった〔悲しみの〕箭を引き抜くのである。

  • 593(20)
    箭を引き抜き、涼やかになり、こころのやすらぎを得る。
    一切の悲しみを乗り越えて、悩みなき寂静に達する。

『[新装版]老病死に勝つブッダの智慧』より

〔『箭経(Sallasutta)』は『老病死に勝つブッダの智慧』に収録されている〕

結局のところ、どれだけ健康を保っても、
人は死ぬのである。

だが、体のことを気にして、修行をしないのは、
弱虫の証でしかないのかもしれない。

 

こんなタイミングで出ているサンガジャパンの最新号がこれだ。

読み直すか。

『サンガジャパンVol.32身体と瞑想』